イギリスを代表する劇作家、レイ・クーニーのコメディの中でも、「鉄板」と言ってよいほどの出来の良い芝居だ。1994年に加藤健一事務所が初演し、その後も何度か上演されて来たが、今回はパルコ劇場で錦織一清、酒井敏也、はしのえみ、瀬戸カトリーヌ、竹内郁子、綾田俊樹らのメンバーでの上演となった。演出は山田和也。
舞台はロンドンのある病院。権威ある記念講演でのスピーチを一時間後に控え、緊張といら立ちを隠せないでいるエリート医師・デーヴィッドの元へ、18年ぶりに以前同じ病院に勤めていて愛人だったジェーンが訪ねて来る。何と、二人の間にはその当時産まれた18歳の息子がいると言う…。この講演で成功を手に入れ、さらに上を目指しているデーヴィッドは、突然訪れたこのハプニングを何とか収束しようと、同僚の医師・ヒューバートに頼むものの、事態はそれだけでは収まらずに、混乱の極みを深めてゆく…。日本風に言えば、「ドタバタ喜劇」であり、多くの登場人物が慌ただしく舞台を出入りし、駆け回り、速射砲のように科白をしゃべる。芝居はどれもそうだが、特にこうしたコメディは「間」が命で、一瞬ずれただけで笑いは白けたものになる代わりに、見事な間合いで芝居が続いて行けば、この上なく面白いものだ。レイ・クーニーの脚本は緻密な計算の上に成り立っており、約2時間観客を笑わせ続けた挙句に、見事な結末を用意している。こうした芝居を観ると、「脚本」がいかに大事なものであるか、改めて認識せざるを得ない。同時に、こうして繰り返され上演される上質なコメディが、なかなか日本では生まれにくい状況が寂しくもある。
錦織一清のデーヴィッド。膨大な科白を喋りながら舞台を出入りし、果ては変装までと大忙しである。初日が開いて間もないせいか、科白に追われている感が若干あり、「間」に緩急のメリハリをつけ、もっとこなれたら更に面白いものになるだろう。次から次へとその場限りの嘘を付き、やがて自分が言った言葉に振り回されてゆく過程を、真面目に演じているのは良いことだ。コメディで自分がふざけてしまう舞台が時折あるが、役者が先に楽しんでしまっては、観客は楽しめない。エリートぶりも鼻に付く寸前で止めているのがいい。いいように押し付けられてしまう酒井敏也のヒューバートが秀逸だ。二人が凸凹コンビのように見えるのがこの芝居で活きている証拠で、最後に酒井が一瞬で芝居をさらう場面もあり、大健闘。息子のレズリーを演じる塚田僚一は、いっぱいいっぱいの挑戦といったところか。愛人・ジェーンのはしのえみ、もう少し「過去」の雰囲気を漂わせても良かったかもしれない。瀬戸カトリーヌが演じるデーヴィッドの妻・砕け過ぎにならず、この芝居で求められている役割をきちんと演じている。いわば、「点景」としての存在がくっきりした。
客席は良く笑っている。良質なコメディは、幸福でもある。テレビの「お笑い」が下品なものばかりだとは言わないが、計算に計算を重ね、一瞬の間合いを稽古した果ての笑いと、その場で思いつくような笑いの質が違うことはおのずと明らかだろう。どちらを好むかは観る側の問題だが、こうした良質の笑いを楽しむことこそ、「大人の娯楽」ではないだろうか。ぜひ、カップルで観てほしい芝居だ。
「美輪明宏 ロマンティック音楽会 2014」
2014.09.18 東京芸術劇場
毎年秋の恒例となっているこのリサイタル、もう25年ほど聞き続けていることになるか。例年、一部はオリジナルでまとめたり、日本の叙情歌を歌ったりの構成でまとめ、二部はシャンソン、という形式で固定している。今年は一部は「おぼろ月夜」「惜別の唄」「ゴンドラの唄」などの古き良き時代の叙情歌に「金色の星」「ヨイトマケの唄」などの自作の曲が並んだ。二部は「港町のレストラン」というダミアの久しぶりに聞く曲を皮切りに、「人生は過ぎ行く」「ラストダンスは私と」、そして「愛の讃歌」。例年との大きな違いは、二部のシャンソン・コーナーに「日替わりの一曲」のコーナーを設けたこと、最後の「愛の讃歌」を十数年ぶりに日本語訳の歌詞でステージで歌ったことだ。私が観た日の日替わりは「ヴォン・ヴォアヤージュ」。「愛の讃歌」を日本語で歌ったのは、間もなく最終回を迎えるNHKの朝の連続テレビ小説『花子とアン』の語りを担当しており、先日、このドラマのラストシーンで流した日本語版の「愛の讃歌」が大きな反響を呼んだためだろう。
「愛の讃歌」について言えば、私が美輪明宏のシャンソンを聴いて来た30数年の中では、最初の頃は自らがピアフの原曲をそのままに近く訳した日本語で歌い、しばらく経ってからは、歌う前に日本語で意味を説明し、フランス語で歌う、というスタイルを続けていた。今年からは、また昔のパターンに戻ったことになるが、両者の意味は違う。美輪がこだわり続けた歌詞は、越路吹雪が歌って大ヒットし、一時代の結婚式ソングとなった岩谷時子の訳詞が、ピアフの激烈なまでの愛情を伝えていないものだ、という意見からだった。ステージで訳者の岩谷時子を名指しで批判するような非礼な真似をする人ではなく、確かにその気持ちは分からないではない。しかし、今から半世紀前に、越路吹雪がこの曲を日本語で歌った時の聴衆の感覚を考えれば、口どけの甘い優しい歌詞にくるまれた愛の唄の方が受け入れられやすかった、という事情も一方にはある。どちらが良い悪いの問題ではなく、外国の曲であれば、いろいろな翻訳があって当然のことだ。私が言いたいのは、まさに「歌は世につれ」ということで、受け取る人々が時代と共に変われば、その感覚や感性も変わるのだ、ということだ。しかし、何がどうなろうとも、「愛の讃歌」が不朽の名曲であるという事実だけは微動だにしない。これが歌の素晴らしいところだ。
日本にシャンソンが入って来てから、間もなく90年になろうとしている。その間に、多くの歌手がいろいろな曲を歌い、「愛の讃歌」のように大ヒットを放ったものもあり、力のあるシャンソン歌手もずいぶん出たが、大変残念なことに、その水脈は徐々に細っているように思える。「陰気くさい」「フランスの演歌だ」「キザったらしい」と、その多くが食わず嫌いとしか思えない意見で一蹴されてしまうことは、本当にもったいないことだ。そうした風潮の中、際立った個性を含めて、孤軍奮闘とも言える形でここまで若い観客を集める美輪明宏のパワーは凄く、もはや神格化されている部分もある。まだ日本が今ほどに鷹揚ではなかった時代に、突出した個性ゆえに排除されながらも何度も立ち上がり、一つの道を切り拓いた功績は大きいだろう。
私が高校生の時に、テレビのモーニングショーで紹介された自作の「老女優は去りゆく」という曲は、日本のシャンソンの名曲だと私は想う。語りを含めて約7分の長い曲は当時のシングル盤のレコードの片面には収まらず、LP盤へ収録された。そんなことどもを考えながら、この人が歩いて来た茨の道を想う時、我々日本人が忘れてはならない感情をも同時に思い出す。そんなリサイタルである。
落語に『死神』という噺がある。三遊亭圓朝が海外の話を落語化したものだと言うが、今でも高座に掛ける噺家が多い人気の噺だ。それを、現代にアレンジし、さらに和風のミュージカルに仕立てたのが今回の作品だ。
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昨年12月に三越劇場で上演された劇団民藝の『八月の鯨』が、今年、地方巡演に出ている。5月に川崎市からスタートし、大阪、京都、神戸、奈良、などの京阪神、旭川、釧路、江別、苫小牧、函館などの北海道の旅を終え、四日市や伊勢、多治見などの中部・東海の旅に入った一日、名古屋から30分ほどの愛知県・江南市での公演を訪れた。
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来年閉館が予定されている青山劇場で、1986年以来29年間にわたって続いてきた恒例の「PLAYZONE」の最終公演である。少年隊の三人が真夏のファンへのプレゼントとして続け、2008年に『Change』と銘打って、次の世代にバトンを渡した。あの年は例年にもました凄まじいほどの熱気で、千秋楽は特別カーテンコールが終わらずに、終演後1時間10分にわたって少年隊が熱いファンの声援に応えていたと、手元の観劇メモに残っている。
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劇団民藝の、昨年の『夏・南方のローマンス』に続く木下順二作品である。1960年代の半ばに近い夏の夜に、応接間で年に一度家族三世代が揃って開かれる「宴」。祖父は昭和天皇と共に、戦争の後始末に尽力した元・内務官僚。父は、かつては左翼思想を持ち、投獄された経験もあるが「転向」した後に、自動車産業を成功させ、今や大企業の社長である。息子は父の会社で働いている。この三世代の男たちを中心に、それぞれの連れ合いや恋人、友人などが一夜の「宴」の中で語り、明らかになる問題とは…。出演者が圧倒的に多い男の芝居を、『夏・南方のローマンス』に続いて丹野郁弓が演出している。
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20年ほど前、東京・森下にあった小劇場「ベニサン・ピット」でデヴィッド・ルヴォーの演出作品をよく観た。あの頃はルヴォー・ブームと言ってもよいほどで、多くの演劇人がこの演出家の才能を高く評価した。小劇場の濃密な空間の中での人間模様を、時には息詰まるほどの苦しさ、緻密さで描いたルヴォーの演出は、新鮮な感覚を持って歓迎された。今回上演されている「昔の日々」は、現代のイギリスを代表する劇作家、ハロルド・ピンターが生前、演出をルヴォーに託していた作品だと言う。住宅の一室の中で巻き起こる濃密な人間関係の背後にあるものを、ルヴォーの手によって炙り出してほしかったのだろうか。
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自発的なカーテンコールがしばらく鳴り止まない芝居を久しぶりで観たような気がする。その価値がある作品だった。今回が6演目になる『6週間のダンスレッスン』。主演の草笛光子は変わらずに回を重ねて来たが、相手役は3代目で、ダブル・・キャストだ。この日の相手は文学座の若手・星智也。たった2人だけの芝居だ。
フロリダの海が見えるマンションの14階に住むリリー・ハリソン(草笛)が「6週間の訪問個人レッスン」でダンスを学ぶことにした。現われたインストラクターのマイケル・ミネッティ(星)は、とてもではないがリリーが受け入れられるようなセンスや個性の持ち主ではなかった。しかし、レッスンを重ねるうちに、お互いの心の中に潜んでいるものが白日のもとにさらけ出される。レッスン初日に会って5分後には首になりかかっていたマイケルとリリーの間にあった反発は、やがて理解に変わり、共感となり、お互いをかけがえのないパートナーとして認め合うことになる…。今風に言えば「ハートフル」な芝居なのだが、何よりもまず「洒落て」いる。
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一般的には、イギリスの中世の劇作家と言えば誰もが「シェイクスピア」の名を挙げる。間違いではないが、同時代の劇作家、ベン・ジョンソンもはずすことはできない作家だ。知名度の点でシェイクスピアよりも劣るために、日本ではあまり上演の機会がないが、人間の「狡猾な」本質を見事に炙り出した喜劇の名手とも言える。「演劇集団 円」では、1981年9月に、西新宿にあった「ステージ円」でベン・ジョンソンの『ヴォルポーネ またの名を狐』という喜劇を日本で初演している。その時に、「こんなに面白い芝居があったのか」と感心し、事あるごとに円のスタッフに「ベン・ジョンソンの作品を…」と言って来た。今回、『錬金術師』が鈴木勝秀の上演台本と演出で新しい形で日の目を見たのは、何とも言えず嬉しいことだ。
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この「演劇批評」でも、何度か奈良県・明日香村に拠点を置いて活動している和太鼓集団「YAMATO」の事は書いた。年間約200ステージの多くを海外で行い、1993年の結成以来、世界53ヵ国で公演を行い、総観客動員数が600万人を超えたという集団だ。和太鼓集団はどこもそうだが、そのステージはほとんどスポーツに近いほどハードで、ずば抜けた身体能力を持っていなくてはできない。もちろん、太鼓を叩けた上で、のことだ。
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