コラム

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『レ・ミゼラブル』30周年 2017.05.30 帝国劇場

 1987年6月、初演の舞台を観た帰りに、友人と「このミュージカル、台詞がないんだな」と話しながら帰ったのを今でもありありと覚えている。当時、歌だけで紡いでゆくミュージカルが全くないわけではなかったが、まだ今のように観客に馴染んでいなかったのだ。それが、今回の上演で30周年、上演回数は3,000回を超える大ヒットとなった。公演回数も48回に及び、2013年の舞台からは日本での新演出に変わり、キャストも一新された。 続きを読む

「昭和に生きた芸の神様」㉒二世 中村 鴈治郎(1902~1983)

 現在の中村鴈治郎の祖父に当たる。昭和の上方歌舞伎の人気役者であったと同時に、映画界で大きな功績を遺した役者でもある。歌舞伎役者の歩みとして珍しいのは、昭和30年にいったん歌舞伎の世界を離れ、映画で10年ほど仕事をした後、再び歌舞伎へ戻ったことだ。歌舞伎から映画へ、という役者は古くは長谷川一夫、片岡千恵蔵から大川橋蔵などたくさんの例があるが、行き来をしたのはこの鴈治郎ぐらいではあるまいか。 続きを読む

「昭和に生きた芸の神様」㉑六代目 三遊亭 圓生(1900~1979)

 実は、私は大いなる落語ファンでもある。落語の話をする時に、「昭和の名人」として必ず名前が登場するのが古今亭志ん生と、ライバルであった三遊亭圓生だ。晩年に、落語界における「真打昇進問題」で柳家小さんと意見が分かれ、弟子の三遊亭圓楽(先代)らを連れて一門を率いて落語の世界を分裂させたとも言える。これにより、寄席などの定席での高座は叶わなくなり、全国各地のホール落語や独演会を活動の場とした。当時すでに名人の誉れの高かった圓生は全国からの要望に応え、多忙なアイドルなみのスケジュールを物ともせずに、全国で落語を聴かせた。亡くなる間際まで、北海道での独演会を終えて羽田へ降り、その足で福岡便に乗り換えて、という気の遠くなるような働き方をしていた。

 いくら丈夫でも、そんな過酷な生活やストレスが身体に良いわけはない。79歳の誕生日、千葉県の習志野市に新しく圓生の後援会ができることになった。朝から体調が悪く、中野の住まいからの車の中で、珍しく終始横になっていたという。そして、後援会発足のパーティに出席し、めでたい『桜鯛』という噺を一席演じた後、引っ込んですぐに心臓発作を起こし、帰らぬ人となった。自分の芸を貫くための壮絶な「戦死」とも言えるほどの死に方だった。

 いろいろな方が書いていることだが、この日、上野動物園に贈られた初代のパンダが死んだ。翌日の新聞の社会面の見出しは、どこも大きく「パンダの死」を扱い、昭和の名人の死はその下に、パンダの三分の一程度の大きさでしか扱われず、悲憤慷慨したものだ。我々ファンにしてみれば、社会面ではなく、一面にトップで載せるべき、ともお思えるニュースだったのだ。

 圓生は、ネタが300席あると言われ、江戸弁、京都弁、大阪弁を完璧に話し分けることができた噺家だった。少年の頃は大阪で子供の義太夫語りとして活躍していたが、転んで胸を傷めたために噺家に転向した。しかし、本格的に芸の花が咲いたのは、ライバルの志ん生と共に戦時中に慰問のために当時の満州に渡り、相当の苦労をした後だった。
 以後、昭和30年代以降の圓生は、破竹の勢いとも言うべき「芸」を見せた。古典の規格をきちんと守ることに心血を注ぐ一方で、新作を劇作家の宇野信夫や菊田一夫に依頼し、新しい創作にも興味を示した。中でも、宇野信夫が圓生のために書いた『江戸の夢』などは、現在は立川志の輔などに引き継がれ、予備知識なく聞けば、昔からある古典落語だと説明されても疑問の余地のないほどだ。もちろん余業ではあるが、当時の東宝の山田五十鈴や森光子の芝居に乞われて出演し、芸術座などの舞台を踏んでいたこともある。ただ、台詞は見事だったが、下半身は座って喋るのが仕事の噺家らしい大根ぶり、という微笑ましさだった。

 晩年に、自ら厳選した100のネタを「圓生百席」としてレコードに録音し、後世に遺したのは大きな仕事である。それも、どこかでの公開録音などをレコード化したものではなく、この企画のために、わざわざスタジオで100席を新たに話したのだ。「芸の鬼」という言葉がぴたりと来るほどに、芸には貪欲だった。だからこそ、真打昇進への考え方も厳しく、「本当に芸の確かなものでなければ認められない」と、「人柄の良さも考慮しては」という温情派の小さんとの対立を生んだのだ。

 暑い夏のさなか、池袋のサンシャイン劇場で、季節らしく『夏の医者』を口演し、隙のない芸で会場を爆笑させた。訃報が届いたのはその三日後のことだ。あの時に、圓生の死を予感した人は、誰もいなかったに違いない。

「昭和に生きた芸の神様」⑳美空 ひばり(1937~1989)

 第二次世界大戦の混乱からまだ抜け切らない昭和24年、人気歌手の灰田勝彦が主演していた有楽町・日劇(正式には「日本劇場」。現在の「マリオン」の辺り)のレビューで注目を集め、同年に発売したレコード『悲しき口笛』が大ヒット、当時としては史上最高の45万枚を売り上げた。以降の勢いはまさに「国民的歌手」の名がふさわしい活動を続け、元号が「平成」と改まった年に、昭和の戦後を疾走した稀代のスターは52年の生涯を終えた。没後30年になろうという今も、男女を問わず多くの歌手が彼女の曲をカバーして歌っており、繰り返し特集番組が放送されている状況を見れば、このエッセイに登場するだけの価値はある。その理由は、「人気スター」であった「多くのヒット曲を生み出した」ということではない。「時代を超えて歌い継がれる曲を歌った」ということだ。 続きを読む

「昭和に生きた芸の神様」⑲七世 尾上 梅幸(1915~1995)

 今、この名跡は「空席」になっている。関係性から言えば、子息の現・尾上菊五郎が継ぐべき名前で、「梅幸」というのは菊五郎が俳句の時に使う俳名であり、今の菊五郎が継ぐにはやや早いのかもしれない。やがて、菊五郎の子息の菊之助が八代目・尾上菊五郎を名乗る折に、自動的に当代の菊五郎が「尾上梅幸」になるだろう。 続きを読む

「昭和に生きた芝居の神様」⑱瀧澤 修(1906~2000)

 「新劇の神様」と呼ばれた昭和の演劇の巨人である。いわゆる「新劇」言われる分野において、『カリスマ性』という点で言えば、男優の瀧澤修、女優の杉村春子が同時代を生きた双璧だろう。緻密な演技、そこへ至るまでの台本の解釈と自らの役作りに関しては、他の追随を許さない役者だった。三好十郎の作品で、自らが当たり役とした画家・ゴッホの生涯を描いた『炎の人』を初演した時に、自らがフランスへ渡り、ゴッホが歩いた道と同じ道をその足でたどった、というほどだ。これは、自らも絵を嗜むという部分もあったにせよ、尋常ではない凝り方、と言える。 続きを読む

「昭和に生きた芸の神様」⑰藤間 紫(1923~2009)

⑰藤間 紫(1923~2009)

 舞踊家であり、女優でもあった。舞踊家の六世・藤間勘十郎との離婚後、2000年に三代目・市川猿之助(現・二代目市川猿翁)と結婚をし、プライベートの部分でも多くの話題があった人だが、舞台でもスケールの大きな女優だった。1995年に、後に伴侶となる猿之助の演出で『西太后』を演じ、歴史に名を遺した女性の人物像の大きさと圧倒的な存在感を見せたのを覚えている。

 元来が舞踊家であり、舞踊家としての活動がほとんどだが、舞踊と芝居は隣同士のような関係にある。「天才少女」との誉れが高く、戦後、1948年の『淀君』をはじめ、『青銅のキリスト』など、創作舞踊に精力的に取り組んだ功績も書いておくべきだろう。日本舞踊の世界でも歌舞伎と同様に、明治期から新作の試みが行われているが、なかなか新しい作品が根付かないのはどちらも悩ましい問題として抱えているところだ。そうした状況に対する煩悶もあったのだろうか、藤間勘十郎との離婚後、宗家・藤間流を離れて自らが「紫派藤間流」を創設、晩年まで自らの原点である舞踊家としての活動に精力を注いだが、私の眼にはやはり「芝居」が残っている。

 藤間紫がその魅力を発揮するのは、自分自身が主役となる芝居よりも、誰かの相手役や、脇に回って「抑え」の役割を勤める時だ。そういう意味では、『西太后』は長い舞台歴の中でも稀有な作品、と言えるかもしれない。晩年近くになり、今まで月のような輝きを見せていた女優が、大きな太陽に変じたケースである。それは、落日が見せた眩いばかりの残照、だったのかもしれない。

 主役と脇役、という点で言えば、もう一本書いておくべき舞台がある。1997年に新橋演舞場で演じた『華岡青洲の妻』も主役だ。これは杉村春子の当たり役で、初演は山田五十鈴に当てて書かれた作品だ。この時も杉村春子が演じる予定になっていたが、杉村は病を得て生涯初の休演を余儀なくされた。そこで「代役」として、杉村の持ち役だった「於継」を演じたのだ。当たり前の事だが、代役は常に急遽回って来るもので、しかも名女優の誉れが高い杉村春子の代わり、というのは大きなチャンスであると同時に誰もが二の足を踏むほどの厳しい状況でもある。しかし、ここで病中の杉村を助けることと同時に、女優の矜持として、「藤間紫の『華岡青洲の妻』」を演じたことは、書き残すべき功績の一つだ。

 それ以前の舞台について言えば、印象に残っているのは高橋英樹や大川橋蔵の明治座での座長公演に、ゲストとして出た時の見事さだ。座長よりも年齢が上で、芸歴も長い女優であり、芝居の世界ではこうした形での出演を「上置き」と呼ぶ。「特別出演」と言い換えれば理解が早いだろう。まさに、「上置き」という呼び方がふさわしい役者だった。主役の芝居に堂々と張り合い、力強く説得力のある台詞で、女優とは思えない「力」を発揮する技術は、他の女優にはあまり例のないことだ。だからこそ、「上置き」としての存在が重宝されたのだ。

 どんな舞台でも、「安心して芝居を任せることのできる役者」は重要な存在だ。こういう役者がいると、舞台に深みが出て、濃度がぐっと高まる。藤間紫は、そういう役者なのだ。これは、舞踊家としてのたぐいまれな素地の上があって芝居をすることで、観客への「見せ方」を熟知していた、というのが大きな理由の一つだろう。すべてをイコールで結ぶことはできないが、「派手に見せる部分」と「目立たぬように内輪に見せる部分」とは、舞踊にも芝居にも共通しているものは多い。

 いずれにしても、どれだけ多くの舞台を踏んで来たか、その経験の数が物を言うのだ。「天才少女」と呼ばれた時代の舞踊の修行がなければ、のちの女優・藤間紫は存在しなかっただろう。そういう意味では、努力も重ねただろうが、稀有な才能に恵まれた女優だったのだと言えるだろう。

「昭和に生きた芸の神様」⑯二世 尾上 松緑(1913~1989)

 晩年に膝を傷め、思うように芝居ができなかったのは松緑の不幸だが、最大の不幸は、自らが世を去る二年前に一人息子の初代・尾上辰之助を40歳の若さで喪ったことだろう。事実、それ以降はめっきり気力・体力ともに衰えがひどくなり、痛々しいほどの憔悴ぶりだった。

 しかし、そこへ至るまでの尾上松緑という役者は豪放磊落で、明るくさっぱりした芸には定評があり、舞踊にも長けている、「江戸前の役者」としての評価は高かった。兄に十一世市川團十郎、八世松本幸四郎という、それぞれ芸風の違う役者を兄に持つ三人兄弟の末っ子は、『魚屋宗五郎』で江戸の市井に生きる人々を活写したかと思えばシェイクスピアの『オセロー』を演じ、歌舞伎十八番の『勧進帳』の弁慶を豪快に演じたかと思えば、文学座の杉村春子とロシアの二人芝居『ターリン行きの船』で老いらくの恋を演じて茶目っ気を見せた。

これは単純に「芸域が広い」というだけの問題ではない。元来、役者である以上、芸域は広くあってしかるべきだと思う。松緑の甥に当たる現・松本幸四郎は、「役者である以上は、やるかどうかは別にして、何でもできなくてはいけない」と言い、実践もしているが、私も同意見だ。そういう意味で言えば、松緑はさまざまな種類の舞台で、自分の魅力を発揮できた役者なのだと言えるし、どんな役が来ても引き受けられるように「抽斗」をたくさん持っていたということだ。。

 伊東四朗が若かりし頃、松緑の大の贔屓で、楽屋へおずおずとサインを貰いに出かけたところ、付き人に追い返されたそうだ。そのやり取りを楽屋で聞いていた松緑は付き人を一喝し、「これからの歌舞伎を応援してくださる若いお客様に何ということを言うのだ」と、快くサインに応じてくれた、と聞いた。このエピソードからも、松緑の人となりが分かるような気がする。

 尤も、舞台の上は明るくとも、明るいばかりの人生など誰にもあるわけはなく、先に述べた晩年の不幸のほかに、松緑は召集されて戦争にも行っている。歌舞伎役者の中で戦争へ行ったという体験を持つのは、私が知る限りは四世中村雀右衛門、五世河原崎国太郎ぐらいのもので、人気役者とは言え軍隊で決して楽な想いをしたわけではない。

 この世代の役者の多くがそうであったように、松緑も六代目尾上菊五郎への崇拝は並大抵のものではなく、その芸を受け継ごうと努力を重ねた。まだ、歌舞伎界で「菊五郎劇団」「吉右衛門劇団」という二つの劇団が勢力を競っていた時代で、その主要メンバーの一人として菊五郎の養子の尾上梅幸らと芸の研鑽に励んだ若き日の努力が実を結んだのだ。

 印象に残る松緑の舞台をいくつか頭の中に浮かべてみると、バラエティに富んでいる。『勧進帳』の弁慶は、昭和55年11月の歌舞伎座顔見世興行で「一世一代」として演じたものが脳裏にあるし、意外なところでは東京宝塚劇場で山田五十鈴と共演した新派の名作『鶴八鶴次郎』、先に挙げた『ターリン行きの船』などの女優との芝居もある。

 もう一つ、昭和57年の京都・南座の師走の顔見世興行で演じた、狂言舞踊の『木六駄』だ。今はあまり上演されることもないが、傘を被った猟師の松緑が花道を雪の山道に見立てて登場した時に、深い山に吹きすさぶ雪の感覚を感じたのを、今でも鮮明に覚えている。そんなことはありえないような話だと考えていただけに、実際に体験した時に、松緑が持つ芸の「凄み」を感じたのだ。

 そうした芸の数々を、これから伝えて行こうと心の柱にしていた辰之助を亡くした哀しみは想像を絶するものがある。しかし、共に国立劇場で初舞台を踏んだ孫が、今は自分の名を継ぎ、歌舞伎の次世代を担う役者の一人として修業に励んでいることを天国で見て、辰之助とともに目を細め、時には文句を言っていることだろう。当代の松緑は、徐々にではあるが、父や祖父の足跡を踏みしめながら歩みを進めている。

「昭和に生きた芸の神様」⑮藤山 寛美(1929~1990)

 現在は、三女の藤山直美が父と同じ役者の道を歩いており、長男の子息で孫に当たる藤山扇治郎が松竹新喜劇へ入団し、祖父の芸を受け継ごうとしている。昭和を代表する喜劇役者の一人で、大阪の「松竹新喜劇」の看板を支えながら長年にわたって活躍。特に、「アホ」を演じさせたら天下一品、という評価は一致するところだろう。

 私生活も舞台に負けず劣らずの破天荒ぶりで、巨額の借金を抱えた末に自己破産、松竹新喜劇を解雇され、再度復帰するなど、破天荒な役柄を地で行くような人生を送った役者だ。60歳で大急ぎで世を去ってしまったような印象がある藤山寛美の最盛期は、1970年代ではなかったろうか。他の役者には真似のできない記録を打ち立てたのもこの頃だ。

それは、「240か月休みなし」という、いささか異常とも言える記録で、同じ場所ではなく、本拠地の大阪をはじめ、東京、名古屋、京都、地方公演と、目まぐるしく240か月休むことなく移動を繰り返しながら舞台に立ち続けた。この当時の松竹新喜劇の公演は、昼の部三本、夜の部三本が標準的で、昼の部、夜の部とも作品は違う。そのうちの少なくとも四本には必ず「主役」で顔を出す、という働きぶりで、これには行動を共にする座員も参っただろう。しかし、寛美は、「何よりもお客さんに喜んでもらうために」と、楽屋で寝起きしながら、次の公演、その次の芝居へと自分を駆り立てて行った。そのワンマンなやり方に反発や体力的な限界をおぼえる役者も多く、身辺を支えてくれていた貴重な助演者を失う悲しみも味わっている。

 観客第一を実践した公演でその筆頭に挙げられるのは「リクエスト公演」だろう。私が観たのは1971年8月の新橋演舞場での公演だった。「リクエスト公演」の仕組みを説明しなくてはならないだろう。昼の部、夜の部、各三本の演目のうち、最後の一本以外は当たり前だが演目は決まっている。最後の演目は、その日の観客のリクエストで決定される。松竹新喜劇が得意とする演目を20本書いたパネルが舞台の上から降りて来て、観客に、「今日はどの芝居が観たいか」を聞き、拍手の大きさで決めるのだ。
そこで演目が決まると、大道具を組み立てるところから始まり、そのままリクエストされた演目が始まる。いくら手慣れた演目でも、決定後打ち合わせや稽古もなく、わずかな幕間を取るだけでその間に衣装や鬘を変え、舞台を始めるというのは、他にお目にかかったことはない。これは、藤山寛美一人だけでのことではなく、劇団員全員が非常な緊張を強いられるものであると同時に、よほどの結束力がなければできないことだっただろう。観客席の片隅でこの公演を観ていたが、あまりの段取りの良さにただただ驚いていた記憶がある。演劇史的には、関西の「にわか」と呼ばれる即興劇の流れを汲むものだが、アドリブではなく台本が用意されている芝居だ。それを、大劇場の二か月に及ぶ公演で行う、というのは他に例を知らない。

 この破天荒かつ斬新な企画は観客に大歓迎され、八月・九月と二か月にわたっての新橋演舞場の公演は即座に完売になった。この公演一つを取ってみても、観客のために命を削りながら「笑える芝居」を工夫しようとする寛美の姿がよく分かる。しかし、こうした無茶とも言えるサービス精神が、肉体を蝕んでもいたのだろう。芝居がハネた後の豪遊ぶりも有名で、その派手な使い方に世間からはいろいろな声が上がった。ただ、何かのインタビューで寛美が答えているのが印象に残っている。「多くのお客様からいただいたご祝儀に、それぞれのお返しは申し訳ないながら時間がありません。そのお返しは舞台でお見せします。いただいたお金は、まとめて大きく使うことでお返しさせてください」と。それが各地での豪遊や、尋常ではないほどの気前の良さの理由だった。この答えにも賛否はあるだろう。しかし、多くのファンから寄せられる行為やご祝儀に返事をするのは舞台で、という役者の姿勢、了見は頷ける。

 俗説の域を出ないかもしれないが、役者やタレントで名字や名前をのどちらかを呼び捨てにされる人、縮めて愛称を付けられる人は「売れる」と言われている。「木村拓哉」がキムタク、「松本潤」がマツジュンであるのと同様に、「藤山寛美」は名前の寛美で呼ばれ、「森繁久彌」は名字の「モリシゲ」で呼ばれた。どうも、あながち俗説とも言えないようだ。

「昭和に生きた芸の神様」⑭太地 喜和子(1943~1992)

 その最期があまりにも伝説的と言うか、この女優らしい、とするべきなのか判断に苦しむところだが、50歳を迎える手前でそそくさと旅立ってしまったのは、没後25年に近い今でも寂しさが募る。 続きを読む

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