「花より男子」
舞台もテレビも、漫画を原作にしたものが増えているのは昨今始まった風潮ではない。昨年も、『ワンピース』が歌舞伎化されて大きな話題になったのは周知の事実だ。この風潮を批判的な眼で眺める向きもあるが、私は、作品を厳選し、どう手を加えるかの問題に過ぎないと思っている。つまり、素材をどこに求めようと、出来上がった舞台の質が問題であり、その出来が悪かった時に、「原作が漫画では…」と言うのは卑怯な話だと考えている。ただ、芝居の制作現場において、すでに読者を多数獲得している実績のある漫画に頼りすぎるあまり、素材を吟味する作業がいささか疎かにされ、玉石混交になっている感があるのは否めない。 続きを読む
ギリシャ悲劇の『王女メディア』を1978年に平幹二朗が蜷川幸雄の演出、辻村寿三郎の衣装という異色の顔合わせで、日生劇場で初演をしてから38年が経った。その間、国内だけではなく、本国のギリシャはもとよりイタリア、フランス、アメリカ、カナダなどで上演を重ね、2012年には「一世一代」と銘打って全国各地50か所での公演を行った。しかし、その舞台が非常に優れていたために、昨年の9月、東京・立川を振り出しに、北海道から九州まで、今年の3月までかけて実に58か所で「一世一代、ふたたび」として12回目の公演を行っている。 続きを読む
師走の国立劇場で『東海道四谷怪談』を上演している。本来であれば、6月から9月辺りまでが「旬」のはずのこの作品を、なぜ真冬、それも暮れに、と思ったが、鶴屋南北がこの芝居を初演した時のことを想い出し、「暮れでなければ上演できない」方法での上演なのだ、と納得した。その関係をばらしてしまえば、「忠臣蔵」だ。歌舞伎の三大名作に数えられる『仮名手本忠臣蔵』をかなり意識した作者の南北は、登場人物のそれぞれに『忠臣蔵』との関わりを持たせたばかりではなく、初演の折は『四谷怪談』と『忠臣蔵』を交互に上演した記録がある。 続きを読む
「根岸庵」とは、俳人・正岡子規が東京での住まいとしていた場所で、「律」とは子規の妹のことだ。36歳で亡くなった子規とその家族、俳人の仲間を描いた小幡欣治の作品を、劇団民藝が上演している。この芝居は1998年に初演されたもので、その折は子規を伊藤孝雄、母・八重を北林谷栄、律を奈良岡朋子が演じ、作者はそれぞれの役者に「当て書き」をした形だった。今回は配役を一新し、丹野郁弓が演出して明治に燃え尽きた俳人と周りの人々の息遣いを炙り出した。 続きを読む
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今年の顔見世は、「十一世市川團十郎五十年祭」でもある。神道の信仰が篤かった市川團十郎家・成田屋の、現・市川海老蔵の祖父に当たる十一世團十郎が没して半世紀。その舞台に、海老蔵の長男「堀越勸玄」が初御目見得として2歳数か月で舞台に登場する『江戸花成田面影』で、歌舞伎座は一気に温かな空気に包まれる。子役として特定の役を演じるわけではないため、「初舞台」ではなく本名での初お目見得になるが、故人の曾孫に当たり、最も若い世代の歌舞伎役者の誕生に、ご馳走で花を添えている坂田藤十郎、片岡仁左衛門、尾上菊五郎、中村梅玉らのベテランも、完全に喰われた格好だ。この坊やが、これからどういう道を歩むのかは誰にも判らない。しかし、新たな可能性の誕生であることは間違いない。海老蔵も完全に「父親の目」で初お目見えの子息をサポートする様子が微笑ましい。 続きを読む
戦後70年を機に「先の大戦」の際の、「いわゆる従軍慰安婦」の問題が誤報や虚報が入り乱れて話題になっているが、この物語はそれに遡ること40年、日露戦争前夜の1903年から1911年までシンガポールに置かれていた娼館の話だ。宮本研の作品を伊藤大が演出し、綱島郷太郎が演じる日本から若い女性を連れて来る女衒(ぜげん)・巻多賀次郎と、シンガポールへ連れて来られた女性たちの物語だ。 続きを読む
今月の顔見世興行で、市川海老蔵が大仏次郎の『若き日の信長』を演じている。この作品は、昭和27年に、海老蔵の祖父に当たる九世市川海老蔵(後の十一世市川團十郎)のために書かれたものだ。無法、放埓で知られた青年時代の織田信長の行動や思想を温かく肯定的な視線で捉えたものだ。海老蔵の父・十二世團十郎もこの役を演じており、祖父以来の当たり役と考えてもよいが、それが戦後の作品、というのが面白い。 続きを読む
森光子が、その女優人生を賭けて2017回にわたって演じた『放浪記』が、6年の歳月を経て、メンバーを一新し、北村文典の新しい演出でよみがえった。観客の中には、森光子の舞台がまだ鮮やかな人も多いだろうが、没後もこうして作品が受け継がれ、新しい生命を吹き込まれることを考えれば、日本の演劇の財産が残ったことになる。演出にも相当細かな検証の後が散見され、まず、全体のテンポが速くなった。以前の上演の折と比較をすると、休憩時間の短縮もあるが、全体で25分短くなり、3時間20分の上演時間である。細かな台詞をカットし、舞台転換の間に見せるスライドや文章も変わっている。人物の動きを大きくし、今までは動かずに芝居をしていた役に動きを与えるなど、全体的に躍動感のある舞台だ。
今回は、仲間由紀恵が林芙美子に挑戦。まだ、森光子の印象が強い中で、あえてこの役に挑戦する気概はたいしたもので、初演の割には良い出来だと言える。大詰の晩年の演技が年齢相応に老けられるか、と幕が開く前には危惧したが、そこも彼女の芝居で乗り切った。ともすれば、森光子が遺した大いなる遺産の芝居に引っ張られそうになる中で、懸命に「自分の林芙美子」を創ろうとする姿、好演である。林芙美子の強烈なまでの上昇志向と余りにも苛酷な人生が随所で感じられ、生々しい女性の姿が前面に出た。
今回の演出は、林芙美子という一人の女性の半世紀の側面と同時に、芙美子を囲む人々の人生をも同時に引っ張り出そうとする「群像劇」のような感覚がある。森光子の『放浪記』が苦難を乗り越えて栄光を勝ち取るまでの女性の半生記だとすれば、今回の『放浪記』は、大正末期から昭和にかけて、自分の可能性を信じて文学の世界で生きようとした若者たちの、辛く哀しい青春群像劇、と見ることもできる。作品の新しい解釈の一つであろう。
そのためか、芙美子のライバルである日夏京子(若村麻由美)、詩人の仲間の白坂五郎(羽場裕一)、アパートの住人で芙美子に好意を寄せる安岡(村田雄浩)、芙美子と一時結婚する詩人の福地貢(窪塚俊介)らが、芙美子の引き立て役に回るのではなく、程度の差はあれ苦悩を抱え、理想と現実のはざまに生きる人間としての実在感が増した。全員が初めて、という緊張感が巧く働いた部分もあるのだろう。
お金持ちのボンボンで、おっとりした雰囲気の白坂を演じる羽場裕一が良い。時折、以前演じた『マイ・フェア・レディ』のピッカリング大佐のような感覚がふと出て来るが、鷹揚とした感覚がはまり役だ。次いで、結核を病んでいる詩人の福地を演じている窪塚俊介も好演だ。ピリピリした病人の、狡猾さと嫉みがよく出ている。柄が役のイメージに似合っており、男の陰影が出た。以前は山本學が演じていた安岡が村田雄浩。最近、硬軟さまざまに役柄を広げているが、山本學とは違い、善意だけが前面に出ていないところにかえって人間臭さが感じられる。ライバルの日夏の若村麻由美、この役は、以前は奈良岡朋子が最も数多く演じ、池内淳子、黒柳徹子などが演じて来たが、そうした人ほどの強烈な個性はないのが残念だ。
仲間由紀恵が、この作品を森光子のように舞台のライフワークとすることができるかどうかは、今後の問題だろう。東京公演を終えた後、名古屋・大阪・福岡と、来年の1月末までこの芝居が続く。その過程でだんだんに練り上げられてゆくだろうが、少なくも、今後の再演を見据えた「覚悟」が見て取れた。この作品が、再演されるかどうか、は観客の評価次第だ。そこに仲間由紀恵の覚悟の結果が出るだろう。しかし、私はより練り上げての再演を観たい、と思う。
幕切れに、20段以上はあろうかという鉄の階段を、いささか背を丸め気味にしながらも、しっかりとした足取りで登ってゆく無言の松本幸四郎の姿に、「孤高」という言葉を想った。私は、この言葉は無闇やたらに使わないようにしている。しかし、すべてが終わった後も、なお遍歴の旅に向かおうとする決意をその背中に感じ、「孤高」とはこういう場合にこそ使うべきだと、久しぶりにこの言葉を頭の中から引っ張り出したのだ。
何度観ても、入れ子のような多重構造になったこの作品は難しいものだ、と率直に思う。しかし、それは1200回を超えてなお演じている幸四郎も、回りの役者も同様の感覚だろう。回を重ねれば重ねるほどに、今までには見えて来なかった新たな発見があるのが芝居の怖さであり、面白さでもある。1969年に同じ帝国劇場でこの芝居を初演して以来、実に46年にわたって、遍歴の騎士、ドン・キホーテを演じ続けている幸四郎の胸の中には、芝居の荒野をひたすらに歩む遍歴の騎士がいるのだ。そんな事を感じさせる舞台だ。
舞台は牢獄から始まる。教会を侮辱した罪で、セルバンテスが投獄されてくる。新入りを手荒く歓迎しようと、牢名主(上條恒彦)が「裁判をやろう」と言い出し、セルバンテスは「即興劇」の形で自らの申し開きをする。セルバンテスが創り出した田舎の郷士、アロンソ・キハーナ。この男は朝から晩まで本を読み続けた挙句、精神に変調を来し、何世紀も前の遍歴の騎士、ドン・キホーテとなって従僕のサンチョ(駒田一)を伴に連れ、遍歴の旅に出る…。幸四郎は、セルバンテスと、彼が産み出したアロンソ・キハーナ、そしてキハーナの頭の中にいるドン・キホーテの三人を一人で演じることになる。この三人は、同一人物でありながら別人でもあるのだ。周りの人物も、その時の場面の主人公により、演じる役が変わる。
3年前の夏に演じた時との最も大きな違いは「年輪」だろうか。それは、「老いた」とか「枯れた」というものとは全く質が異なるものだ。3年の時間の間に、松本幸四郎という役者が重ねた歳月の年輪が、人物により深みを増し、香気をもたらした、ということだ。朗々と歌い上げる『見果てぬ夢』に込められたメッセージは相変わらず力強く、観客に大いなる共感を与える。人生は夢を追い続けるためにある。それが、どんなに遠く、難しいものであろうとも。確かに、一度限りの人生、自分の夢に生涯を賭けなくては、と思うと同時に、そのための「覚悟」がいかに重要なものであるかを、幸四郎は自らの役者としての軌跡で語っているようにも思う。
また、有名な「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折合をつけてあるべき姿のために戦わぬことだ」という台詞は、何度聞いても胸を刺す。しかし、幸四郎のこのエネルギーの凄まじさはどうだろうか。2時間15分というもの、ほぼ出ずっぱりで多くの動きを軽やかに見せる芝居は、精神的な面でも肉体的な面でも苛酷だ。それを一画も揺るがせにすることなく演じる姿に、観客は共感し、感動を覚えるのだろう。
1977年の公演から、1,000回近く牢名主を演じている上條恒彦の厚みに加えて風格のある芝居、歌声は見事なものだ。2009年から従僕のサンチョを演じている駒田一の安定感が増し、ドン・キホーテに対する想いが深まった。今回はヒロインのアルドンサに宝塚歌劇団出身の霧矢大夢を初めて迎えたが、この女性が持っている「肉感」が描き切れなかったのが惜しい。
久しぶりに「強制」ではなく、劇場を立ち去りがたい想いの観客たちが続けるカーテンコールに出会った。
「アングラの女王」の異名を持つ李麗仙が、唐十郎の代表作の一つ、『少女仮面』を演じている。もはや、「アングラ」という言葉が死語となった演劇界において、金守珍が、自らの演出・出演で、主役の春日野八千代に李麗仙を迎えての上演だ。昭和44年の初演以来、何回かこの役を演じている李麗仙が、70歳を過ぎてなお、伝説の舞台への挑戦だ。
「宝塚歌劇団の至宝」と呼ばれ、最年長の女優でもあった大スター・春日野八千代(1915~2012)。戦前からの活躍は目覚ましく、「永遠の二枚目」とも評された実在の女優を主人公にし、地下にある喫茶店を舞台に、唐十郎独特の舞台観が表現されてゆく。戦時中に満洲で病を得た時に出会った甘粕大尉とのエピソード、春日野八千代に憧れる少女・緑丘貝(松山愛佳)とその祖母(金守珍)とのやり取り。「Nikutai」と名付けられた喫茶店の中で起きる出来事は、いとも簡単に時空を飛び越え、空間さえも飛び越える。衰えゆく美貌を恐れ、「永遠の処女性」を求める春日野は、その肉体をも否定される…。
こうした芝居の粗筋を説明することはほとんど意味がない。いくら言葉を費やしても、他の芝居のように説明はできず、空疎になるだけだ。むしろ、一観客として、幕が開いた瞬間に唐十郎が創り出し、金守珍が具現化しようとした世界に飛び込んでゆくしかない。150人も入れば満員の下北沢の小劇場に、全身を白いスーツで包んだ李麗仙が現われた瞬間、その空間が魔法にかけられたように観客ともども時空を飛び越えたのを感じた。『嵐が丘』の台詞を言い、緑丘貝に語る李麗仙は、演じる春日野八千代と李麗仙本人との間を自由に行き来しているように見える。この役は、彼女以外には考えることのできないものだ。今、この瞬間に李麗仙の『少女仮面』に出会えたことは、大袈裟ではなく一期一会の幸運としか言いようがないだろう。
緑丘貝を演じる松山愛佳。文学座からの参加だが、自分が持っている芝居の抽斗を全部さらけ出して、李麗仙にぶつかり、好演を見せた。文学座の演技論にはない芝居を要求されるであろうだけに、この舞台が彼女の成長に与える影響は大きいだろう。腹話術師を演じた申大樹も熱演である。
誤解のないように書いておくと、小劇場の芝居がアンダーグラウンドとイコールで結ばれるわけではない。今は、「アングラ」という略語についても説明が必要だろう。1960年代から70年代にかけて起きた反体制・反商業主義に基づく演劇、とでも言えばいいだろうか。それまでの演劇のあり方に対する反発の姿勢を作家や演出家の世界観と共に強く打ち出したもので、いわゆるストレート・プレイや大劇場での演劇とは明らかに一線を画したものだ。演劇だけではなく、映画や他の文化にもこの動きは広がり、唐十郎や、寺山修司などがその旗手として一世を風靡したが、他の演劇との垣根が時代と共に低くなった。「新宿梁山泊」は、そんな中でもなお「アングラ」の作品を上演し続けている劇団だ。
こうした経緯や現状を踏まえると、今回の公演がいかにタイムリーなものであるかを感じる。60年代とは別の混沌や不安を抱えた今、『少女仮面』がもたらした衝撃は、日本の演劇史において明らかに「伝説」になるであろう。