師走の国立劇場で『東海道四谷怪談』を上演している。本来であれば、6月から9月辺りまでが「旬」のはずのこの作品を、なぜ真冬、それも暮れに、と思ったが、鶴屋南北がこの芝居を初演した時のことを想い出し、「暮れでなければ上演できない」方法での上演なのだ、と納得した。その関係をばらしてしまえば、「忠臣蔵」だ。歌舞伎の三大名作に数えられる『仮名手本忠臣蔵』をかなり意識した作者の南北は、登場人物のそれぞれに『忠臣蔵』との関わりを持たせたばかりではなく、初演の折は『四谷怪談』と『忠臣蔵』を交互に上演した記録がある。

 その作者の意図を汲み取り、あえて『忠臣蔵』との関係性を色濃く匂わせ、序幕と大詰に『忠臣蔵』を取り入れたのが今回の上演だ。幕が開くと、花道から市川染五郎扮する鶴屋南北がセリ上がり、二本の芝居の関係性を説明する。そして、新たに付け加えた「鎌倉足利館門前の場」が始まる。この場面は原作にはなく、まさに『忠臣蔵』の刃傷事件の直後だ。これが、あの馴染み深い「四谷怪談」になってゆく。

 松本幸四郎が23年ぶりに民谷伊右衛門を演じ、お岩をはじめ、小仏小平、鶴屋南北、佐藤与茂七、大星由良之助の五役を、市川染五郎が演じる。最近、女形を演じる機会が増えた染五郎だが、一本の物語の芯になる女性を演じるのも初めてのことだ。しかし、これが予想よりも遥かに良い。元は武士の妻であり、今は浪々の身の上だが、子供を産んだ女性の色気や生活感がにじみ出ている。こうした芝居はいわゆる「時代物」とは違い、「型」による表現がないだけに、いかに心情がリアルに観客に迫るかが問題だ。その点、染五郎のお岩には生身の女性の愛情や嫉妬、父を殺された哀しみや恨みが伝わる。初挑戦で大役に挑んだ上に、自分でも芝居の改作に協力し、この成果を上げたことで、市川染五郎という役者の幅や可能性を大きく広げた、という意味は大きい。

 対する幸四郎も、色男でありながら悪人という、歌舞伎の世界でいう「色悪」という役柄の代表作とも言える伊右衛門を、冷徹非情なだけではなく、自分を取り巻く世界が動いてゆく中で揺れる男の心をも併せて見せたところに、幸四郎の新しい解釈がある。久しぶりに演じることで、かつてのように演じることの方が楽なはずだ。しかし、それをせずに「現代」に何を加えられるかの結果、心理的な掘り下げが深くなり、伊右衛門が持つ「陰影」がより濃くなった。

 最近、新作歌舞伎がブームで、若手の役者を中心に多くの試みがなされている。これには大まかに二通りあり、全く新しい作品を創るケースと、過去の作品を今の観客用に手を入れて創るケースだ。具体的な例を挙げれば、前者は市川猿之助の『ワンピース』であり、後者は染五郎や片岡愛之助が演じている『鯉つかみ』などだろう。このやり方について、それぞれ意見はあろう。しかし、歌舞伎は400年の歴史を持っており、埋もれたままになっている作品も数多い。それにはそれなりの理由があって埋もれているのだろうが、中には、新たな生命を吹き込むことができる作品もあるだろう。

 『東海道四谷怪談』について言えば、埋もれている作品ではない。しかし、従来通りのやり方だけではない上演方法があるのだ、ということを今回示したことになる。「古い革袋に新しい酒を」という諺があるが、今回の上演はまさにこの諺を実行したようなものだ。これをヒントにすれば、今までの作品の中でも違った見え方や、切り口を変えた上演方法が出てくるだろう。今の新作ブームの中で、三つ目の道を切り拓いたことになる。この方法も大変だが、宝の山であることに間違いはない。市川染五郎、どうやら大きな山脈を見つけたようである。