「アングラの女王」の異名を持つ李麗仙が、唐十郎の代表作の一つ、『少女仮面』を演じている。もはや、「アングラ」という言葉が死語となった演劇界において、金守珍が、自らの演出・出演で、主役の春日野八千代に李麗仙を迎えての上演だ。昭和44年の初演以来、何回かこの役を演じている李麗仙が、70歳を過ぎてなお、伝説の舞台への挑戦だ。

「宝塚歌劇団の至宝」と呼ばれ、最年長の女優でもあった大スター・春日野八千代(1915~2012)。戦前からの活躍は目覚ましく、「永遠の二枚目」とも評された実在の女優を主人公にし、地下にある喫茶店を舞台に、唐十郎独特の舞台観が表現されてゆく。戦時中に満洲で病を得た時に出会った甘粕大尉とのエピソード、春日野八千代に憧れる少女・緑丘貝(松山愛佳)とその祖母(金守珍)とのやり取り。「Nikutai」と名付けられた喫茶店の中で起きる出来事は、いとも簡単に時空を飛び越え、空間さえも飛び越える。衰えゆく美貌を恐れ、「永遠の処女性」を求める春日野は、その肉体をも否定される…。

こうした芝居の粗筋を説明することはほとんど意味がない。いくら言葉を費やしても、他の芝居のように説明はできず、空疎になるだけだ。むしろ、一観客として、幕が開いた瞬間に唐十郎が創り出し、金守珍が具現化しようとした世界に飛び込んでゆくしかない。150人も入れば満員の下北沢の小劇場に、全身を白いスーツで包んだ李麗仙が現われた瞬間、その空間が魔法にかけられたように観客ともども時空を飛び越えたのを感じた。『嵐が丘』の台詞を言い、緑丘貝に語る李麗仙は、演じる春日野八千代と李麗仙本人との間を自由に行き来しているように見える。この役は、彼女以外には考えることのできないものだ。今、この瞬間に李麗仙の『少女仮面』に出会えたことは、大袈裟ではなく一期一会の幸運としか言いようがないだろう。

緑丘貝を演じる松山愛佳。文学座からの参加だが、自分が持っている芝居の抽斗を全部さらけ出して、李麗仙にぶつかり、好演を見せた。文学座の演技論にはない芝居を要求されるであろうだけに、この舞台が彼女の成長に与える影響は大きいだろう。腹話術師を演じた申大樹も熱演である。

誤解のないように書いておくと、小劇場の芝居がアンダーグラウンドとイコールで結ばれるわけではない。今は、「アングラ」という略語についても説明が必要だろう。1960年代から70年代にかけて起きた反体制・反商業主義に基づく演劇、とでも言えばいいだろうか。それまでの演劇のあり方に対する反発の姿勢を作家や演出家の世界観と共に強く打ち出したもので、いわゆるストレート・プレイや大劇場での演劇とは明らかに一線を画したものだ。演劇だけではなく、映画や他の文化にもこの動きは広がり、唐十郎や、寺山修司などがその旗手として一世を風靡したが、他の演劇との垣根が時代と共に低くなった。「新宿梁山泊」は、そんな中でもなお「アングラ」の作品を上演し続けている劇団だ。

こうした経緯や現状を踏まえると、今回の公演がいかにタイムリーなものであるかを感じる。60年代とは別の混沌や不安を抱えた今、『少女仮面』がもたらした衝撃は、日本の演劇史において明らかに「伝説」になるであろう。