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 今年の顔見世は、「十一世市川團十郎五十年祭」でもある。神道の信仰が篤かった市川團十郎家・成田屋の、現・市川海老蔵の祖父に当たる十一世團十郎が没して半世紀。その舞台に、海老蔵の長男「堀越勸玄」が初御目見得として2歳数か月で舞台に登場する『江戸花成田面影』で、歌舞伎座は一気に温かな空気に包まれる。子役として特定の役を演じるわけではないため、「初舞台」ではなく本名での初お目見得になるが、故人の曾孫に当たり、最も若い世代の歌舞伎役者の誕生に、ご馳走で花を添えている坂田藤十郎、片岡仁左衛門、尾上菊五郎、中村梅玉らのベテランも、完全に喰われた格好だ。この坊やが、これからどういう道を歩むのかは誰にも判らない。しかし、新たな可能性の誕生であることは間違いない。海老蔵も完全に「父親の目」で初お目見えの子息をサポートする様子が微笑ましい。

 次が真山青果の『元禄忠臣蔵』から『仙石屋敷』。艱難辛苦の果てに大望を遂げた大石内蔵助以下四十七士が、他の大名家へお預けになるまでの期間を描いた芝居だ。真山青果の芝居はえてして「理に詰む」作品が多い傾向にあるが、仁左衛門が演じる大石の朗々とした緩急自在の長科白の中に込められた心情の発露は見事なものだ。はまり役、と言ってよいだろう。四十七士に心を寄せる仙石伯耆守は梅玉。夜の部の最後、『河内山』の松江侯と似た部分のある殿様の役で、これはいささか損な役回りだ。同じ「忠臣蔵」を題材にした芝居でも、現在の感覚で言えば『仮名手本忠臣蔵』がドラマ的な手法で、『元禄忠臣蔵』はドキュメンタリーに近いと言うこともできそうだ。それぞれの登場人物の心理的な葛藤を、肉声に近い感覚で「聴かせる芝居」という点が大きな特徴だろう。

 歌舞伎に特有の義太夫などの音曲も使わず、幕切れも柝が打たれずに静かに緞帳が降りてゆく。これは、登場人物の想いの「余韻」を観客に伝えるための演出と解釈するべきだろう。「チョン」と柝が入った瞬間にドラマから現実に引き戻されるのではなく、その余韻を味わうために、あえて幕切れの合図をしない、という手法こそ、昭和に入って描かれた「忠臣蔵」の本領と言えるのかもしれない。

 次が『勧進帳』。今回は幸四郎の弁慶、染五郎の富樫、松緑の義経という顔合わせだ。幸四郎は、先月『ラ・マンチャの男』を上演していたとは思えないエネルギーで弁慶を見せる。染五郎・松緑という自分の子供の世代を相手にしながらも、手を抜かずに一気に幕切れまでなだれ込む。今回、特筆すべきは染五郎の富樫だろう。今までにも何回か演じているが、だんだんに父の弁慶とのバランスが拮抗して来た上に、爽やかな風姿が活き、情がある富樫だ。松緑の義経は、もともと役の仁ではないことに加えて、声を潰したのか、初日間もなくに観た折よりも声が出ていない。御大将の品格と悲運の運命には、透き通った声音がほしいところだ。まだ「挑戦」の段階にあり、発展途上の芸ではあるものの、惜しいことだ。

 最後は海老蔵の『河内山』。腰元に執着する梅玉の松江侯の屋敷に、騙りに乗り込んで来るお数寄屋坊主の河内山、海老蔵のそれは最初から何だかインチキ臭さがぷんぷんしており、とても高僧には見えない。幕切れ近くに正体がばれ、底で一気に本性を現わす『弁天小僧』にも似た趣向がこの芝居の見せ場だが、最初から「怪しい」河内山が、観客に「何なのだ、こいつは。何かがあるな」と思わせる。歌舞伎通に言わせれば、このやり方は「最初から底を割ってしまい、邪道だ」との声もあるだろう。しかし、どんなやり方でも、観客を巻き込んで引っ張って行ってしまうのが海老蔵の不思議な魅力でもある。すべてを知りながらその場を大人の対応で納める高木小座衛門に市川左団次。最近はこの人の芸の魅力でもあったアクが抜けて、こうした脇役にもゆとりのある芝居を見せる。

 久しぶりに密度の濃い演目が並んだ感覚がある。一方で、中間世代が薄くなってしまい、女形が少ない歌舞伎の現状が見えてくる公演でもある。若い人々が、大一座の経験で得たことを自分の芝居にどう活かせるのか、宿題も大きい。