「生の演劇」も、さまざまな部分で進歩を遂げ、コンピュータが大きな役割を果たすようになって久しい。特に顕著な効果を見せているのは、照明、音響などの分野で、音楽もコンピュータで流すタイミングなどを打ち込み、照明も同様になった。こうした技術の進歩のおかげで、演劇の幅がずいぶん広がり、新たな可能性が出てきた一方で、もろ手を挙げて賛成、とばかりは言えないものもある。その一つが「マイク」だ。台詞を劇場の隅々まではっきり届かせるために、マイクの使用はずいぶん以前から行われている。劇場の規模も1,000人を超えるクラスはいくつもあり、それを否定はしない。

私が気になるのは、昨今多くの舞台で見かける、口元近くまで伸びている「個人用のマイク」だ。これも、今までも使われており、衣裳の口元に近い場所に付けられていたり、観客の目に付きにくい場所に忍ばせて使っていた。今も、口元まで延びたマイクを肌の地色に合わせるなどの工夫はされているが、どうにも目障りで仕方がない時がある。

 もっと心配なのは、「舞台は今のような形式のマイクがあって当然」という感覚を、演技者が持つことで、特に若い世代に対してそれを感じる。台詞というものが、自分を楽器にしていかに客席の隅々まで届かせるかという「肉体としての芸」が、努力の方法を知らぬ間に、衰える恐れがある。腹の底から声を出し、その声が割れずにキチンとした台詞として観客に伝わってこそ、初めて芝居としての共感や感動へ進む。「囁き声」の台詞が、客席の一番遠いところへはっきり届くのも役者の技術だ。

 旧聞に属する話だが、歌舞伎の片岡我當は、若い頃に豊かな声量を出すために京都の南座のそばの鴨川べりで発声練習をしたと聞いた。また、邦楽では気候の厳しい真冬に川べりで声を向こうへ届かせようとする寒げいこもある。「歌舞伎や邦楽と現代劇は違う」との指摘もあろう。それはその通りだ。しかし、マイクに頼りすぎてしまうと、台詞が口元だけをうろうろしているような感覚を持つことがあり、本当に心の底から湧き出る感情表現にならないことがある。一番心配なのはこの問題なのだ。

 今の我々が、携帯電話やインターネットの登場と爆発的な普及で大いに便利な生活を手に入れた一方で、人間本来の感性や感覚、情緒といったものを少なからず奪われてしまったことはここで改めて書くまでもないだろう。それを今更否定はできない。現に、この原稿もパソコンで書いたものをインターネットで配信しているのだ。では、その中で、どう「折り合い」を付けるか、の問題だろう。エンターテインメントの世界での素晴らしい技術革新を否定しても仕方がなく、否定する必要もない。ただ、携帯電話やパソコンと同様に、使う側がどこでどういう線を引くか、の問題だろう。

 「進化」を利用することで起きる自分の「退化」をどう防ぐかとは皮肉な話だが、私は週に一度、携帯電話のスイッチを入れない日を作り、ささやかな抵抗を試みている。これも、もはや時代遅れなのかもしれない。