教員の資格を持っているわけではないが、社会人大学や企業、俳優養成所などで、「講義」の形でお喋りをすることが多い。長いものは丸一日かけて、休憩を挟みながらではあるが8時間というものもあり、聞く方の辛さを考えると申し訳ないような気がする。  内容は専門の芝居をはじめ、日本の伝統や文化などあれこれだが、ここ数年の間に感じていたことが最近は確信に変わった。いろいろなことを知っている「フリ」をして教えているような顔をしてはいるものの、実はそのために、聴衆の方々から「教わって」いるのだ。

 同じような内容の演題のリクエストをいただいても場所も相手も毎回違う。また、連続で講義をしている場所では、顔ぶれは同じでも、内容が同じではどうにもならない。毎回、講義の前には、「この話をどう整理すれば分かりやすく聞いてもらえるか」「いつもとは違った角度から切り込めないか」と少しは考える。場合によっては資料を作ることもあれば、素噺の場合もある。  しかし、この時点でまだ見ぬ聴衆の方々を想像しながら、自分の情報を整理し、話題の組み立てを考え、一応の準備をすることになる。もうこの時点で、講義のために自分の頭の中を浚っていることになり、「教える」前に「教わって」いるのだ。

 ああか、こうかと考えてその場に立ち、話を始めると、事前に自分が思うように行った試しはまずない。講演や講義などといった堅苦しいイメージではなく、気楽に芝居の話を聴かせる「話芸」にまで高めることができれば、という無謀な望みはあるが、道はまだ遥かに遠い。

 その一方で、若い世代に「教わる」ことも多くなった。何かの芝居をたまに若い役者と出かけたりする。私には10回目の芝居でも、彼らは初めて眼にする作品だ。私には当たり前のことが新鮮にも映るし、見過ごしていたことにやけに感動したりする。そういう姿に接すると、自分の芝居の観方がこのままで良いのかどうか、と考えるきっかけになる。言うまでもなく、100人の観客がいれば100通りの観方があって当然だ。しかし、長い間芝居を観ていると、「自分の観方」が出来上がってしまう。これは悪いことだとは思わない。特に私のような仕事の場合は、この柱が定まらなければ話にならない。しかし、時折、この柱に刺激を与えてくれるような新しい感覚や、知らないゆえの素朴な疑問が、役に立つ機会がある。

 これは読書でも同じで、20年前に読んだ本を再読して、初めて気付くところや、共感する場所が変わっている場合がある。もちろん、何度読んでも同じところで涙する本もある。劇作家の菊田一夫は「忘却とは忘れ去ることなり」と言った。完全に忘れてはまずいが、時折想い出しては新たな「何か」を見出すことも有用なのだ。

 今年は何を忘れ、何を想い出すのだろうか。