お正月の歌舞伎座、昼の部は時代物の『金閣寺』で幕を開け、舞踊の『蜘蛛の拍子舞』、最後が世話物の『一本刀土俵入』と、濃厚なボリューム感のある舞台だ。

 『金閣寺』は天下を狙う大悪人の松永大膳が染五郎、軟禁されている雪姫が七之助、此下東吉が勘九郎、と若々しいメンバーで幕を開ける。染五郎の演じる大膳は歌舞伎では「国崩し」と呼ばれる悪人で、科白に重厚感があるのが良い。七之助の雪姫は可憐で美しいが、人妻の色気がまだ足りず、いかにも清楚なままなのが惜しい。勘九郎の東吉、科白のメリハリがよく爽やかに演じて見せる。歌舞伎とは同じ演目を違ったメンバーで繰り返し観るのが一つの醍醐味だが、こうしたメンバーで『金閣寺』を演じるのを観ていると、歌舞伎の世界が確実に世代交代を告げていることを改めて感じさせられる。

 次が舞踊『蜘蛛の拍子舞』。夜な夜な御所に現われる物の怪が実は蜘蛛の精であったというストーリーで、『金閣寺』の三人がここでもよく働いている。七之助が珍しく立役を見せる。源頼光という武将としての品格は悪くないが、所作が時折女形めくのがもったいない。勘九郎の渡辺綱は赤っ面で勇壮さを見せ、『金閣寺』の役にはない手強さも、役柄として見せた。蜘蛛の精の玉三郎の相変わらずの美しさと、規矩正しい踊りは見ごたえがある。最後に登場する押し戻し、その名の通り物の怪を押し戻す勇猛果敢な坂田金時は染五郎。清涼感がある力強さが漂い、四人揃っての幕切れの舞台面が美しい。

 最後が『一本刀土俵入』。順を追って「大人の芝居」になってゆく感覚である。幸四郎の駒形茂兵衛は、破門になった相撲取りの青年を救ってくれた女性への恩返し、という長谷川伸のストーリーの根幹に、恋慕の情を加えて演じたのが新しい感覚で、今までの演者にはなかったものだ。これがなければ、10年後にわざわざ恩返しだけに来るには動機が薄く、なるほど、こういう演じ方もあるのか、と思わせる。昭和に入って書かれた芝居ながら、新国劇、歌舞伎、女剣劇、商業演劇など、何千回演じられたかわからない芝居だが、まだ新しい発見があるものだ。
茂兵衛を助ける酌婦のお蔦は魁春。肝心の序幕がしらふに感じられ、全く酔態が見えない。酔った上でありったけの財産を通りすがりの関取に恵んでしまうようでなければ、大詰めの場面が活きず、その分感動が薄くなる。中村歌六の波一里儀十にヤクザの貫目が感じられるが、通行人などの端役がいささか現代的なのは、やがて問題になりかねない要素を孕んでいる。

 盛りだくさんな演目は結構だが、この時代に11時の開演で終演が16時近く、という昔ながらの上演方法はいかがなものだろうか。今までにもあちこちに何度も書いて来たことだが、これでは仕事のある人には「観るな」というに等しい時間帯だ。「一幕見」の席はあるものの、歌舞伎座の改築前に比べて素晴らしく設備が拡充されたわけでもない。歌舞伎を一回観るのに、映画の三本立てを観るのにほぼ等しい時間を要するとなると、腰を上げにくい人々が多いのも事実だ。

 事務手続きが煩雑にはなるだろうが、各等ごとに「一幕見」を設定するぐらいの柔軟性を持たないと、舞台の上で役者がいくら頑張っても、物理的に観客がついてゆけないケースがこれから出て来るだろう。各俳優のあそこがどう、ここがどう、と言う前に、歌舞伎の興行システムや上演時間など、考えるべき問題は多い。