映画『テルマエ・ロマエ』のPARTⅡもヒットし、引っ張りだこの阿部寛。年齢相応の味わいが出て来たのは、近年の収穫であると同時に、容姿とは裏腹なコメディ・センスを持っていることも披露している。

あれだけの体格だから舞台映えすることは間違いないが、そう頻繁に舞台には立たずに、作品を丹念に選び、映像とのバランスを取っているようだ。阿部寛を劇的に変えたことで知られる『熱海殺人事件』をはじめ、『新・近松心中物語』、10時間に及ぶ大作『コースト・オブ・ユートピア』などに挑んで来たが、今年の秋には『ジュリアス・シーザー』を演じると聴いた。なるほど、と思える作品だ。

ずいぶん昔の話になるが、1977年の1月、当時渋谷の東横デパートの上にあった「東横劇場」で俳優座が河原崎次郎のシーザーでこの芝居を上演した。他に仲代達矢、加藤剛の共演で、主役のシーザーよりも他の二人が印象に残っているが、今度の舞台はそんなことにはならないだろう。

演じる役が、役者の体格に左右される要素は決して小さいとは言えない場合がある。時代劇には顔が大きめで体格もやや太めの方が役に応じた貫録も出るし、雰囲気を創りやすい。すべてがそうだ、とは言わないまでも、時として背が高すぎて帯の位置がアンバランスな役者を見かけることもある。阿部寛の豊かな体躯には、洋の東西を問わず骨格の太い芝居が似合う。役者としての自分の特質を知ることは、自分を活かすための最大の武器にもなるのだ。

そうした点で、秋に上演される『ジュリアス・シーザー』をどう演じて見せるのか、大いに楽しみなところだ。スケールの大きな芝居である一方、その中に描かれる人間の心理や感情に変わりはない。その襞やぶれを、どう創るか、だろう。そこは演出家の意向に任せるしかないが、どう応えるかは彼自身の問題だ。

誰でも平等に年を取る。後は、いかに巧く年を重ねるかの問題で、俳優の場合、この問題は特に深刻な要素である。演技力に深みが出ると評価をされる場合もあれば、急に生彩を欠く人もいる。まだ、阿部寛の老いる姿を想像するのは早すぎるが、彼が今後どのような年の重ね方をしてゆくのかには興味がある。いずれ、娘を嫁に出すような年齢の父親や、定年間近のサラリーマンに近い年齢の役を演じる日が来るだろう。

彼の個性が面白い、と思うのは、あれだけの堂々とした偉丈夫ぶりを見せながらも、ふと我々と「等身大」の部分を見せたり感じさせたりすることだ。そこに親しみやすさと安心感があるのだろう。紛れもないスターでありながら、ふとした瞬間に見せる「素」や「天然」とも言える部分があることで、阿部寛の「バランス」がうまく保たれている。それが役者の魅力でもあり、素材としての人間の魅力にもなっている。

ここまで振幅の広い役者としての存在になったのは、私が観た舞台ではやはり『熱海殺人事件』が大きなターニング・ポイントであったことは間違いない。役者がどこで、どんな作品や演出家に出会うか。一見、これも「運」のようだが、そうばかりとは言えまい。その本質を見抜く眼を持った人々がいたからこそ、出会うべくして出会ったのだ。それに挑戦したのは本人の努力だ。その点で言えば、『コースト・オブ・ユートピア』の初日の舞台も忘れ難い印象を私の中に残している。作品のスケールと共に。