「昨年、一番ブレイクした歌舞伎役者」という点ではどこからも異論はないだろう。ずいぶん前のことだが、尾上菊五郎が菊之助時代に大河ドラマでより大きな人気が出たのと共通している点がある。最も大きな違いは、菊五郎が歌舞伎役者としてはお手の物の時代劇だったのに対し、愛之助は現代のドラマで人気が爆発した、という点だ。  関西の歌舞伎とは関係のない家庭の子として生まれ、昭和56年12月に十三世片岡仁左衛門の「部屋子」として京都・南座の顔見世興行で初舞台を踏んでいる。その後、努力と才能を認められ、片岡秀太郎と養子縁組をし、今や歌舞伎界のホープの一人となった。ホープとは言え、芸歴32年のベテランだ。数年前に分かったのだが、私は彼が歌舞伎役者として初舞台を踏んだ舞台を観ているばかりか、仁左衛門の楽屋で片岡千代丸と名乗っていた少年当時の愛之助と会っている。お互いにびっくりしたものだ。

歌舞伎は言うまでもなく、EXILEとのコラボレーションや大当たりを取ったドラマ、映画と、まさに破竹の勢いを見せているが、彼の頭の中はそれでも常に歌舞伎でいっぱいのようだ。「今のお客様に共感してもらえるような新しい歌舞伎を創るにはどうしたら良いか」。もう一つは、上方歌舞伎の芸をどうやって今の観客に分かりやすいように伝えてゆくか。10年間休んでいない、というインタビューを読んだが、獅子奮迅の活躍が彼の試行錯誤を物語っている。

昨年の10月、大阪の松竹座で『夏祭浪花鑑』を演じた。今でも人気のある演目で、さして珍しいことではないが、愛之助はふだん上演されない場面を復活して上演し、歌舞伎を見慣れていない観客にも前後の事件の関係や登場人物の関係を分かりやすく見せた。この通し上演は私も初めて観る舞台だったが、非常にわかりやすかったのと同時に、今まで見慣れていた『夏祭浪花鑑』では伺えなかった人物の断面が見えたのが大きな収穫だった。

この上演形態は、師である十三世仁左衛門が自主公演の『仁左衛門歌舞伎』で演じた方法を踏襲したもので、その点で言えば、上方の片岡家の『夏祭』が平成の時代につながった、という意味をも併せ持っていた。新しい感覚で古典を見直す眼を持っているのは、今後の歌舞伎には明るい展望だ。彼らの世代に、同じ視点を持った役者が揃っているのも力強いことだ。

歌舞伎が古典芸能であることは言うまでもないが、最初から古典だったわけではない。その感覚を、何とか現代の観客に味わってもらいたい、という想いが彼の舞台から感じられる。演劇が時代と共に変容する、という宿命を持っている以上、時代に迎合するのではなく、今の時代をどう捉え、歌舞伎として見せるのか。その一方で、古典として尊重すべきものは尊重し、先人の教えの上にどんな工夫を重ねることができるのか。彼らの世代に与えられている宿題は大きく、重い。しかし、愛之助にはそれに真っ向から対峙するだけのパワーとエネルギーがある。何よりも、「芝居が好きでたまらない」という、役者に不可欠の魅力と才能を持っている。これからの歌舞伎を創る世代の中核の一人として、果たさなければならない責任や、期待にいかに答えるかの重圧はあるだろう。しかし、先人たちがそれを乗り越えて来たからこそ、今の歌舞伎がある。歌舞伎座新開場の賑わいが潮を引くように去る前に、新しい歌舞伎の萌芽とも言うべきものをどんどん生み出してほしい。一回で成功せずとも、今の愛之助には、何度もチャンスがある。それを充分に活かし切るような舞台を、観客は待っているのだ。