日本一チケットの取りにくい落語家と言われている立川志の輔のパルコ劇場一ヶ月公演も今年で九年目を迎えるという。一人で毎回三席、オリジナル、新作、古典と、休演日はあるにせよ一ヶ月続けるというのは尋常な話ではない。本人いわく、「武道館でやっちゃえば一回で終わるんだけど、落語ってそういう性質のものじゃないから」。まさにその通りだが、一ヶ月を噺し続けるのは並大抵の技ではない。しかし、気力・体力・技術がそれを可能にし、何よりも多くの人がこの公演を待っている。先年亡くなった志の輔の師匠・立川談志は天才とも異才とも言われ、名人の名をほしいままにした。さすがにその弟子だけのことはあるが、談志の芸が客を選ぶ性質があったのに比べ、志の輔の芸は良い意味で万人向けである。古典落語でも、「いかに現代のお客様に分かりやすいものにするか」に心を砕いているのがハッキリと分かる。また、オリジナルや新作でも、まさに「現代の落語」のあり方や本質を探りながら、自ら創り、練り上げている。師匠・談志の功績が平成に名人芸を遺したことであるとするなら、志の輔の功績は、落語の寿命を少なくも20年から30年は延ばしたことだろう。その証拠に、今の落語界に元気があるとは言え、男女を問わず若い観客の姿がずいぶん増えた。

「苦行」とも思えるこの公演だが、考えを変えれば志の輔には他のホール落語や独演会とは違った大きなプラスの意味がある。寄席へは出ない立川流のことゆえ、一日限りのホール落語や独演会への出演になる。しかし、このパルコ公演に限っては、同じ噺を一ヶ月近く高座で繰り返せる利点がある。観客を前に稽古をしようという不遜な了見を持つ志の輔ではないが、毎日の高座の中で試行錯誤や、改良の余地を探すことができ、噺の完成度を一気に高めるチャンスでもあるのだ。もとより、完成度の低い噺を高座へかける人ではないから、それをどこまで高めることができるかが、志の輔の自己との闘いでもあるのだろう。私は、数年前に志の輔のことを「落語と心中する覚悟で生きている人だ」と書いたことがある。その姿勢は微塵も変わらないどころか、ますます色合いを濃くしているように見える。一点一画を疎かにしない芸もあれば、当日の観客の雰囲気に合わせて融通無碍の芸をする噺家もいる。前者は楷書の芸であり、後者は草書や行書の芸だ。最近の噺家の中には、基本の楷書がきっちり書けないのにいきなりくずし字の方へ走る人がいる。自由奔放が許されるのは基礎ができての話だ。今さら志の輔の芸を楷書だ草書だと言うことは無意味だ。しかし、かつて楷書の芸が落語の王道であるとされていた時代を経て来た私にとっては、志の輔の融通無碍とも言える芸が、長年にわたって硬直気味だった落語をようやく時代と共に生きる芸能本来のあり方に戻してくれた点で、感謝と賞賛を送りたい。

今年の公演も一回の休憩を挟んで約2時間40分、その時間をたった一人、高座の上で満席の観客を相手に闘う志の輔の姿があった。しかし、志の輔にとって、毎年一月のパルコ公演は、他の落語会や独演会とは性質の違う、新しい何かを生み出す場所のように思える。この積み重ねがあるからこそ、今の落語が元気でいられるのだ。現在の落語会は志の輔の独走体制にあると言ってもよい。所属や流派を問わず、志の輔を脅かすような後輩を生み出すことが、今の落語界の義務ではなかろうか。