演劇批評

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「一月歌舞伎座 昼の部」 2015.01.06 歌舞伎座

 お正月の歌舞伎座、昼の部は時代物の『金閣寺』で幕を開け、舞踊の『蜘蛛の拍子舞』、最後が世話物の『一本刀土俵入』と、濃厚なボリューム感のある舞台だ。

 『金閣寺』は天下を狙う大悪人の松永大膳が染五郎、軟禁されている雪姫が七之助、此下東吉が勘九郎、と若々しいメンバーで幕を開ける。染五郎の演じる大膳は歌舞伎では「国崩し」と呼ばれる悪人で、科白に重厚感があるのが良い。七之助の雪姫は可憐で美しいが、人妻の色気がまだ足りず、いかにも清楚なままなのが惜しい。勘九郎の東吉、科白のメリハリがよく爽やかに演じて見せる。歌舞伎とは同じ演目を違ったメンバーで繰り返し観るのが一つの醍醐味だが、こうしたメンバーで『金閣寺』を演じるのを観ていると、歌舞伎の世界が確実に世代交代を告げていることを改めて感じさせられる。 続きを読む

「義賢最期」 2014.12 歌舞伎座

 歌舞伎座の師走公演の昼の部、片岡愛之助が主役で『義賢最期』を演じている。言うまでもなく、テレビドラマで大ブレイクして以降、息つく暇もないほどの活躍ぶりを見せている愛之助だが、実は歌舞伎座で自分が主役として出し物を演じるのはこれが初めてのことになる。愛之助がテレビなどの子役を経て歌舞伎の世界の住人となったのは、昭和56年12月の京都・南座の恒例顔見世興行のことだ。この時、昭和の名優・十三世片岡仁左衛門の部屋子(普通の弟子とは違い、師匠自らが手元に置いて育てる弟子を指すケースが多い)として、片岡千代丸の名で初舞台を踏んだ。 続きを読む

「ヴェローナの二紳士」 2014.12.10 日生劇場

 シェイクスピアの作品群の中では、『ハムレット』や『マクベス』などのいわゆる「四大悲劇」に比べると、上演頻度ははるかに少ない。1971年にニューヨークで初演されたミュージカル版はトニー賞も受賞しており、それを日本風に味付けするために上演台本・演出・振付を宮本亜門が行っている。 続きを読む

「私のホストちゃん~血闘!福岡中洲編~」 2014.12.09 日本青年館

 ホストの世界を舞台にし、若手のイケメン俳優を集めた舞台は他にも例がないわけではない。それにしても、平日の昼間の公演でありながら、実によく入っている。約1300席の日本青年館の大ホールでの13回の公演がほとんど完売に近い状況であり、演劇不況の折、羨ましいと思う劇場や劇団は多いだろう。 続きを読む

「吉良ですが、なにか?」 2014.11.26 本多劇場

 伊東四朗の「生誕77周年記念」、つまり「喜寿のお祝い」の舞台である。脚本が三谷幸喜、演出が出演も兼ねるラサール石井、他に福田沙紀、馬渕英里可、瀬戸カトリーヌ、駿河太郎、伊東孝明、大竹浩一、阿南健治、戸田恵子。 続きを読む

『バリモア』 2014.11.15 シアタートラム

 今の若い映画ファンには、戦争中に亡くなった「ジョン・バリモア」という二枚目の映画スターがいたことを知る人は少ないかもしれない。映画が無声映画から「トーキー」と呼ばれる科白が聞こえる物に変わった時代を生きた映画俳優であり、シェイクスピアの作品を演じる舞台俳優でもあった。晩年は、若い頃からのアルコール依存症が悪化し、50歳を過ぎた頃からは「忘れられた人」になり、60歳で孤独と貧困のうちに生涯を閉じた役者だ。四回の結婚をしたものの、家庭には恵まれず、俳優としても恵まれた生涯ではなかった。 続きを読む

『勧進帳』 2014.11.01 歌舞伎座 夜の部

「勧進帳」
2014.11.01 歌舞伎座

 今年の歌舞伎座の顔見世は、「初世松本白鸚三十三回忌追善」と銘打って、子息の幸四郎、吉右衛門、孫の染五郎を中心に、菊五郎、魁春、芝雀らが顔を揃える。昼夜共に故人のゆかりの演目が並ぶが、注目は、『勧進帳』の弁慶を初役で染五郎が演じることだろう。曾祖父の七世幸四郎以来、代々で3000回以上演じている「家の藝」とも言うべき『勧進帳』の弁慶を、1100回演じている父・幸四郎の富樫、叔父・吉右衛門の義経を向こうに回して演じるプレッシャーはいかばかりであろう。

 私は、最近はスケジュールの問題で歌舞伎座の初日に出かけることはほとんどないが、今回はしばらくぶりで初日を観た。『鈴ヶ森』が終わり、『勧進帳』の幕が開くまでの歌舞伎座の異様、とも言える空気は初めて体験したものだ。観客の期待、高揚、そして緊張。幕が開いた瞬間のどよめくような拍手。まだ、舞台には登場人物が誰一人として登場していないのに、だ。

 幸四郎の富樫が名乗りを上げた後、吉右衛門の義経一行が花道から登場し、最後に染五郎の弁慶が出る。立派な押し出しだ。言葉にはできないほどの緊張感を跳ね返すような目付きの鋭さ。しかし、スポットライトの反射か、うっすら涙が浮かんでいるようにも見えた。吉右衛門の義経は、昭和52年9月の歌舞伎座で、当時の市川海老蔵(十二世團十郎)、中村吉右衛門、初世尾上辰之助が『勧進帳』の三役を週替わりで演じた舞台を観て以来、実に37年ぶりの再会だ。『一條大蔵譚』などは別にして、あまりこういう白塗りの系統の役は演じない役者だが、あえて表情を作らないところに、御大将である義経の風格が漂っている。幕が開く前は「仁ではない」とも思ったが、いい義経だ。

 幸四郎の富樫は團十郎の弁慶と共に演じたものを最近観ているので、違和感はない。むしろ、1100回以上『勧進帳』の舞台に立っている余裕が感じられるが、芝居が進むにつれて染五郎の力に引き込まれてゆく。この親子のやり取りを、染五郎の子息・金太郎が太刀持ちで見守っている。私は、この舞台は上方狂言の『吉田屋』の「紙衣譲り」のように、親が自分の持ち役を子供に渡す意味をも持つのかと思って観ていたが、幸四郎はまだまだ弁慶を、充分な力を持って演じることができる。決して「譲る」わけではなく、追善の機会に、自分の胸を我が子に貸している感じだ。

さて、染五郎の弁慶である。ところどころ、力み過ぎていると感じた場面はあったが、低く太い声で役柄の重さを見せ、富樫との問答も拮抗した緊迫感で見せる。うまく関所を潜り抜け、富樫に振る舞われた酒に酔い、踊る場面でもう少し愛嬌が出ればもっと良い弁慶になっただろうが、初役としては充分な合格点と言えるだろう。祖父のよい追善演目になったと同時に、今後、染五郎の弁慶、幸四郎の弁慶との競演、という楽しみも見えて来た。

 ここで特筆すべきことがある。弁慶は、立役を演じる役者にとっては憧れの大役の一つであることは間違いない。しかし、染五郎は、こうした物の他に、『鏡獅子』のような女形舞踊も踊れる、ということだ。勇壮で重厚な『勧進帳』の弁慶と、美しい小姓でたおやかな娘ぶりを見せる『鏡獅子』の両極端を演じることができる役者が生まれた、ということは注目してよい。「やれる」ことと「できる」ことの意味は違う。今までにこの二役を演じた役者がいないわけではないが、どちらにも及第点、という役者は、私は少なくとも見ていない。

 幕切れの飛び六法で引っ込む染五郎の弁慶の眼に映っていたものは何だったのだろうか。

「夫が多すぎて」  2014.10.30 シアタークリエ

「夫が多すぎて」
2014.10.30 シアタークリエ

 英国の偉大な小説家で劇作家でもあるサマセット・モームの代表的な戯曲である。ウエルメイド・プレイとも言うべきコメディで、1919年にロンドンで初演された作品だ。今から約100年前、第一次世界大戦が終わった後の時代をコメディにしたもので、質の高い作品であることは間違いないが、やはり随所に古さが感じられる。今回の上演では、演出の板垣恭一が上演台本を新たに作り直し、時代感による古さをなるべく感じさせないようにしたこと、また、役者の個性に合わせて現代に近づけたことが大きな特徴だろう。

 第一次世界大戦が終わって間もないロンドンで、魅力的な女性・ヴィクトリア(大地真央)は、夫が戦死したため、夫の親友だったフレデリック(石田純一)と結婚をし、新たな生活を送っている。そこへ、戦死したはずの最初の夫・ウイリアム(中村梅雀)が突然帰って来た。ヴィクトリアは、一体どちらの妻なのだろうか。夫二人が混乱を来している最中に、戦争で大金を手にした大金持ちのレスター(徳井優)がプロポーズを…。

 確かに、イギリス好みの品の良いコメディだ。大地真央が、とんでもなくわがままで、実は夫に迷惑がられている女性を、嫌味がないように演じている。ただ、台詞の調子が時として『マイ・フェア・レディ』のイライザを感じさせる場面がある。イライザは「偽上流階級」であり、ヴィクトリアは生まれ付いての上流階級である。そこの差がくっきりとすれば、もっと良い役に仕上がっていただろう。
 石田純一は、随所に人柄を感じさせる直球の芝居だ。それに対して、中村梅雀が自由自在に変化球の芝居で勝負をし、この二人の夫は良いコンビになった。石田の名言、「不倫は文化である」を台詞に取りいれても、人柄だろうか、あざとくも嫌味にも聞こえない。舞台巧者とは言えないが、得な人柄だ。中村梅雀は、芝居の巧さは定評があるものの、ほんのわずか現代的な部分が足りないように思う。それは、芝居の中でごくたまに台詞が歌舞伎めくこととの関係もあるのだろう。
 ヴィクトリアの母親・シャトルワース夫人が水野久美。デビューが1957年と言うから、芸歴57年の大ベテランだ。こういう役者が一枚噛んでいるだけで、安心感がある。

 日本でもこうして繰り返し上演される洒落たコメディがほしいところだが、なかなか根付かないでいるのは残念だ。日本の演劇の歴史の中で、喜劇が軽んじられていた時代があったせいだろうか。また、最近は「お笑い」と「コメディ」の区別が付かない状況でもある。コメディは、緻密な計算を重ねて産みだす「すれ違い」が根本にあり、その場限りで観客を笑わせればよい、というものではない。それだけに、一本の良質な作品に仕上げるのに時間がかかる。そこを待てない、という状況もあるのだろうが、日本でもこうした作品が今後、どんどん生まれてほしいものだ。

 カーテンコールの後、大地真央が出演者と共に、観客サービスだろうか、一曲歌う。あえて言うが、これはぶち壊しだ。ミュージカルで名を成した大地に期待するところはあるだろう。しかし、コメディの幕が降りた後、芝居の余韻を味わう時間がないのだ。カーテンコールが終わり、客席が明るくなったところで、今の芝居の場面を想い出しながら家路に着く。この余韻も含めてが芝居である。

「双蝶々曲輪日記」(ふたつちょうちょうくるわにっき)2014.10.04 国立劇場

「双蝶々曲輪日記」(ふたつちょうちょうくるわにっき)

 「角力場」と「引窓」はよく上演される人気演目だが、それ以外の場面はなかなか観る機会がない。しかし、今回のように普段は上演されない場面を「通し狂言」のような形で上演すると、今までの上演方法でははっきりしなかった人物や事件の関係がより鮮明になることがある。その一方で、長い演目の場合は、どこに力点を置いて見せるかが問われることになる。その点で言えば、今回は濡髪長五郎を中心に据え、回りの人間関係をくっきり描く脚本の補綴の仕方が、分かりやすくなった成功例だと言えよう。

 江戸時代の庶民の人気の的だった「相撲取り」を主人公に据えた芝居は他にも何本かあるが、やはりこの「双蝶々」が一番の人気作品だろう。プロの相撲取りの濡髪長五郎と、それに挑む放駒長吉とが肉薄する「角力場」、濡髪が犯した殺人事件を、継母に対する義理で見なかったことにし、逃がそうとする「引窓」を中心に、この二つの名場面が浮き立つような構成になった。濡髪を松本幸四郎、放駒長吉、若旦那の山崎与五郎、南与兵衛の三役を市川染五郎が三役早替わりで見せる親子競演だ。それに加えて、中村芝雀、市川高麗蔵、中村魁春、中村東蔵らのメンバーである。

 幸四郎の濡髪は、関取らしい貫録が充分で、「角力場」ではその容姿だけではなく、迫力が良い。芝居が「引窓」まで進むと、母親の前で自らの罪に苦悩し、逃げようか自首しようかと悩む、身体は大きさとは裏腹に心の繊細な葛藤を見せる。科白の緩急のツボが巧くはまり、グイグイと観客を引き込む力がある。一方、染五郎は三役早替わりと大奮闘で、珍しい序幕の「新清水」で宙乗りまで見せるサービスぶりだが、「角力場」で見せる若旦那の与五郎が良い。俗に「つっころばし」と呼ばれる、突かれたらすぐに転びそうな「金と力のない色男」ぶりに工夫がある。細かな点を言えば、常に親指を隠している手の動きに若旦那の柔らかな色気が見える。こうした工夫が、役者を育てるのだろう。「引窓」の南与兵衛も、持ち前の科白の良さが活きて、分別も出て来て、情がこもっているのは良いことだ。

 この「引窓」は、実子でありながら罪を犯した濡髪長五郎と、継子ではあるが夫の後を継ぎ、村の代官となった南与兵衛の間に挟まり、苦悩する母親・お幸の悲劇でもある。最近、こうした老婆を演じる役者が少なくなり、東蔵が一手に引き受けている感がある。それ自体は悪くないのだが、バタバタと派手に動き過ぎ、苦悩のありったけを動きと科白で説明的に見せてしまう。余りに大車輪で芝居をするので、内心の葛藤や出来の悪い実子と出来の良い継子に対する義理のせめぎ合いなど、辛い老母の悩みが伝わって来ない。ここは、やたらに元気な老婆ではなく、心の中での苦悩が爆発し、理性が感情に負けた点で観客の共感を得るべきで、最初からああ騒いでしまっては、こちらが共鳴している暇がない。ベテランなのだから、もう少し芝居の緩急で見せる工夫がほしかった。元は遊女でありながら、その頃からの馴染みで今は晴れて与兵衛の女房になった芝雀のお早がいつまでも若々しく、一軒の家で起きる悲劇に花を添えている。

 歌舞伎が賑やかな力を持っている今、過去の名作をどう見せるか、というのは今後の大きな課題である。その中の一つの方法が「通し狂言」で、国立劇場はそれを目的に多くの作品を上演し、名舞台も残して来た。今後、これからの観客を見据えつつ、過去の舞台を参考に、「古い革袋に新しい酒を」注ぎ込むのも、大きな宿題だろう。

「イット・ランズ・イン・ザ・ファミリー~パパと呼ばないで~」

 イギリスを代表する劇作家、レイ・クーニーのコメディの中でも、「鉄板」と言ってよいほどの出来の良い芝居だ。1994年に加藤健一事務所が初演し、その後も何度か上演されて来たが、今回はパルコ劇場で錦織一清、酒井敏也、はしのえみ、瀬戸カトリーヌ、竹内郁子、綾田俊樹らのメンバーでの上演となった。演出は山田和也。

 舞台はロンドンのある病院。権威ある記念講演でのスピーチを一時間後に控え、緊張といら立ちを隠せないでいるエリート医師・デーヴィッドの元へ、18年ぶりに以前同じ病院に勤めていて愛人だったジェーンが訪ねて来る。何と、二人の間にはその当時産まれた18歳の息子がいると言う…。この講演で成功を手に入れ、さらに上を目指しているデーヴィッドは、突然訪れたこのハプニングを何とか収束しようと、同僚の医師・ヒューバートに頼むものの、事態はそれだけでは収まらずに、混乱の極みを深めてゆく…。日本風に言えば、「ドタバタ喜劇」であり、多くの登場人物が慌ただしく舞台を出入りし、駆け回り、速射砲のように科白をしゃべる。芝居はどれもそうだが、特にこうしたコメディは「間」が命で、一瞬ずれただけで笑いは白けたものになる代わりに、見事な間合いで芝居が続いて行けば、この上なく面白いものだ。レイ・クーニーの脚本は緻密な計算の上に成り立っており、約2時間観客を笑わせ続けた挙句に、見事な結末を用意している。こうした芝居を観ると、「脚本」がいかに大事なものであるか、改めて認識せざるを得ない。同時に、こうして繰り返され上演される上質なコメディが、なかなか日本では生まれにくい状況が寂しくもある。

 錦織一清のデーヴィッド。膨大な科白を喋りながら舞台を出入りし、果ては変装までと大忙しである。初日が開いて間もないせいか、科白に追われている感が若干あり、「間」に緩急のメリハリをつけ、もっとこなれたら更に面白いものになるだろう。次から次へとその場限りの嘘を付き、やがて自分が言った言葉に振り回されてゆく過程を、真面目に演じているのは良いことだ。コメディで自分がふざけてしまう舞台が時折あるが、役者が先に楽しんでしまっては、観客は楽しめない。エリートぶりも鼻に付く寸前で止めているのがいい。いいように押し付けられてしまう酒井敏也のヒューバートが秀逸だ。二人が凸凹コンビのように見えるのがこの芝居で活きている証拠で、最後に酒井が一瞬で芝居をさらう場面もあり、大健闘。息子のレズリーを演じる塚田僚一は、いっぱいいっぱいの挑戦といったところか。愛人・ジェーンのはしのえみ、もう少し「過去」の雰囲気を漂わせても良かったかもしれない。瀬戸カトリーヌが演じるデーヴィッドの妻・砕け過ぎにならず、この芝居で求められている役割をきちんと演じている。いわば、「点景」としての存在がくっきりした。

 客席は良く笑っている。良質なコメディは、幸福でもある。テレビの「お笑い」が下品なものばかりだとは言わないが、計算に計算を重ね、一瞬の間合いを稽古した果ての笑いと、その場で思いつくような笑いの質が違うことはおのずと明らかだろう。どちらを好むかは観る側の問題だが、こうした良質の笑いを楽しむことこそ、「大人の娯楽」ではないだろうか。ぜひ、カップルで観てほしい芝居だ。

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