ここ数年来、制作費の関係や本番までの作り込みが舞台よりも簡易なことから、「朗読劇」
が増えている。ラジオしかなかった時代、「朗読」や「ラジオドラマ」が一つの「芸」として高い評価を得ていた時代があった。そうした経緯を知ってか知らずか、最近の朗読劇の中には「お手軽」だけが先行し、「読む」、あるいは「聞かせる」ことの意味や重さを置き去りにした舞台が散見される。

 芝居と朗読の大きな違いは、舞台装置があるなしや出演人数の多寡の問題ではない。芝居は、俳優が脚本を読み込んだ上で、演出家や多くのスタッフと共に造型した人物像を、観客に見せ、その姿や感情が「共感」や「納得」を得られるかどうか、にかかっている。「朗読」は、俳優が「読んだ」言葉が、観客にどう伝わり、そこでどんなイメージを喚起させるかの勝負にある。朗読の方が観客の自由度が高い分、俳優にとっては「抜き身」で勝負をしなくてはならない。いわば、「素」の実力が問われる場面なのだ。よほどの腕がある俳優でなければ、「朗読」だけで観客を物語の世界に引きずり込むことは難しい。

 時代劇、現代劇を問わず定評のある田村亮は、一連のブームとは関係なく、コツコツと朗読の会を重ねている。「日本神話」、「昔ばなし」「詩」などを、その都度楽器の種類を変えて、単なる伴奏ではなく、「朗読」と「音楽」の融和・融合を試みながら、独自の世界観を創り出して来た。アボリジニの楽器を使って「日本神話」を語ったこともあり、今回は「オンド・マルトノ」という、1928年に発明された電子楽器の奏者・原田節との競演である。「オンド・マルトノ」は初めて耳にする楽器だが、電子楽器の初期のものであり、柔らかく優しい音が出る。今回の朗読の題材となった「詩」「昔ばなし」との相性も悪くない。

 最初に人気の詩人「金子みすゞ」の作品を数編。その後、民話の『鶴女房』と『姥捨山』、そしてフランク・シナトラの歌唱で世界的なヒットとなった『マイ・ウェイ』を原田節が訳したものを読み、アンコールには『祝婚歌』と、多彩な色合いを見せるステージだ。

 『鶴女房』も『姥捨山』もよく知られた民話だが、『鶴女房』は私が知っているものとは違い、機織りの場面を見られた鶴との「後日譚」があり、これはこれで興味深い。このステージで一体何人の人物を読み分けたか、数えはしなかったが、『姥捨山』では息子を読む時には声も若々しい男になり、次の瞬間に捨てられる母親になる。あるいは、声質を変えずとも、その人物として聞こえる場合もある。これが、本来の朗読の醍醐味なのだ。力み返って感情移入を過多にするわけではなく、あくまでも自然に読み進める中で、観客のイメージを膨らませるとは、こういうことだ。その証拠に、眼を閉じて、彼が発する声に身を委ねている観客の姿が多く見られた。

 物語のあらすじや台本を読んで「朗読」だと勘違いしている舞台との差はここにある。それは舞台や映像の経験の中で「言葉の重み」や「台詞を活かす」ことの重要さを長年にわたって経験して来たからこそだろう。原田節との音楽との優しい融和が聴いていて心地よい。

 最後に、『マイ・ウェイ』の朗読。歌うわけではなく、元のフランス語の詞を訳したものを読む。シナトラのヒットの後、邦訳された歌詞が馴染んでいるが、この歌の本来のテーマは「死出三途への旅立ちの歌」なのだ。間もなく死を迎えようとする男が、過去を振り返り自分の一生に後悔はなかった、と回想をする。それがいつしか『ゴーイング・マイウェイ』のような感覚の歌になっているが、改めて「原典」の意味に触れたことは大きい。

 巧みで多彩な朗読に身を委ねるひと時は、自分の眠った感性を呼び覚ます豊饒な時間にもなるのことを明したステージだ。