032.『楽屋』作:.清水邦夫 2017.11.13

 舞台は、タイトル通り、どこかの劇場の「楽屋」である。それも、大劇場の次の間が付いているような立派な部屋ではない。登場人物は女優だけ4人。上演時間もそう長くはない一幕物であることも手伝い、アマチュア劇団でも頻繁に取り上げられる作品だ。すべての公演を網羅することは不可能だが、恐らく、日本の現代劇の中での上演回数、ベスト3に入るのではないだろうか。初演は1977年、渋谷にあった「ジアンジアン」という、80人も詰め込めばギュウギュウという小さな場所だ。それ以降、プロ・アマチュアを含め、ずいぶん上演されて来た人気作品である。

 芝居が進むにしたがって、この4人の女優は生者と死者に別れていることがわかる。自分の想いを断ち切ることができず、楽屋に棲み付いている地縛霊のような存在、と言ったら失礼だろうか。そうした人物も交え、シェイクスピアの『マクベス』やチェーホフの『かもめ』の一節を引用しながら芝居は進む。これらの名作は、女優が憧れながらも演じることができなかった作品である。

 普通、出演者の友人・知人、あるいは仕事関係でもない限りは、劇場の「楽屋」を訪れる機会はない。それだけに未知の領域で、どんな人間関係があるのか、は興味の尽きないところだろう。今は、近代的なビルの中に劇場があるケースが増えたが、確かにこの芝居に出て来そうな雰囲気を持つ楽屋や劇場は、30年ほど前までは各所にあったように思う。そうした劇場には、都市伝説めいたものが語られている劇場もあった。
 大時代な言い方をすれば、楽屋という場所は、何百人、何千人という数の人々が、役を争い、芝居をめぐって闘いを繰り広げた戦場の跡地、とも見えなくはない。その数知れない闘いの一つを切り取り、時間の経過を知らせるためにも過去の亡霊を舞台に登場させ、想いを語らせたのがこの『楽屋』ではなかったのだろうか。

 初演の1977年という時代は、60年安保以降、演劇人が様々な形で自らの思想を作品に投影したり、古典の作品に懐疑的な眼を注いで「現代」との折衷点を探したり、と各分野でさまざまな試みが行われていた時代だ。この作品、あるいは作者の清水邦夫(1936~)について考えれば、今よりも遥かに演劇のジャンルを隔てる壁が高かった時代にあって、「新劇」と呼ばれた芝居を上演していた。そうした時代に生まれた作品だ。

 『楽屋』には、サブタイトルに「-流れ去るものはやがてなつかしき-」と書かれている。ここで流れ去っていくものは、果たして「時」なのだろうか、「想い出」なのだろうか。もっと言えば、女優が持っている「業」が、その生を喪ってしまえば、狂おしいほどのものでもなつかしく感じられるとも考えられる。我々は時の流れを止めることはできない。だからこそ、「今」や「未来」に執着する。それを繰り返すのが人生なのだ、と言えばそれまでだが、演劇界の片隅で生きていると、役者をはじめとする表現者たちはつくづく「業の深い」人種の一つなのだ、と思う。人の事を棚に上げられる義理はないが、私自身が物を書くことに対する執着もまた「業」に他ならない。

 誰の、どんな栄光も栄誉も、永遠ではないことを我々は知っている。また、立派な物ではなくとも、楽しい、あるいは忌まわしい想い出さえもすぐに過去の物になる。とは言え、忘れられないものもあるだろう。楽屋に棲み付く女優の魂は慰められたのだろうか。