「カザフスタン」という国家について詳細の情報をお持ちの方はそう多くはないだろう。1991年にソ連が崩壊し、その折に独立をした国で、豊かな鉱物資源に恵まれた国だ。未来都市を目指した都市開発の設計は、日本の建築家、故・黒川紀章の手になるもので、日本とは良好な関係にある。

12月21日に、港区の赤坂区民センターで『アクタス村の阿彦(あひこ)』という芝居が、カザフスタンの国立アカデミー劇団により上演された。

 この作品は、第二次大戦終結時に15歳でカザフスタンの収容所に入れられ、10年間の過酷な収容所生活を経験した阿彦哲郎さんの実体験に基づいたものだ。阿彦さんは、出所後、カザフ人の「母」のおかげで生き延びることができ、現地で家庭を持った。戦後50年になろうという1994年に祖国・日本へ帰国し、両親の墓参を果たしたものの、日本での生活に馴染めず、再びカザフスタンの人となった。この物語で、カザフスタンの人々は、声高に「戦争反対」のアピールではなく、人が温かく接する心の意味、「争い」がいかに無益か、を描いている。日本での上演は同時通訳の機械が無料で観客全員に貸し出され、この作品のモデルになった87歳の阿彦哲郎さんも来日しての上演となった。

 終戦後、シベリアへ抑留され、筆舌に尽くしがたい苦労を味わった人々の話はまだ全容は解明されないながらも、語られるケースはある。しかし、約6万人が抑留され、ほとんどが再び祖国の土を踏むことなく亡くなってしまったカザフスタンの事実は、ほとんど知られていない。戦後72年を経て、こうした歴史的事実はさらに真実を知ることが難しくなる。厳しい抑留生活の中で生き延び、現地で家庭を持つことができ、さらには祖国・日本の地を踏むことができた阿彦さんは、抑留者の中では万に一つ、の幸福なケースだったかもしれない。しかし、そもそも「抑留」に遭うような事態が起きてはいけないはずで、その中で自らの生活も決して豊かではないカザフスタンの人々が異国の敵対する兵士だった人を温かく受け入れ、「第二の祖国」とした物語は、現在の我々に考えるべき問題を多く含んでいるはずだ。

 公演後、麻布の「カザフスタン大使館」へ場所を移し、さっきまで舞台に出ていた「アウエゾフ国立アカデミー劇団」の俳優の方々、作者、監督の皆さんと一時間半以上にわたる懇談の機会を得た。言語に堪能ではないため、大使館の広報担当・アイドス氏の手を煩わせての懇談だったが、非常に有意義な時間を過ごすことができた。

 日本と良好な関係を保っているカザフスタンの演劇人たちは、「演劇」という文化を通じて草の根の国際交流をしたい、という希望を強く持っている。彼の地では、森本薫の『女の一生』、阿部公房の『砂の女』など、日本の戯曲を一度ならず上演しており、その上で、これから現地で上演するにはどんな作家の作品が良いのか、今回上演した『アクタス村の阿彦』におかしな点はなかったかなどを熱心に聞いて来られた。

 日本の芝居を海外で上演することは今に始まったことではなく、歌舞伎、新劇は言うに及ばず、日本人が演じるギリシア悲劇、シェイクスピア劇など、多くの作品が各国で上演されている。しかし、これほどに苛烈な体験を経た人々が、平和と友好のために両国の間に起きた過去の事件をテーマに活動を続けていることは寡聞にして知らなかった。同時に、この公演に賭けるカザフスタンの人々の熱意に圧倒され、通訳される私の言葉に熱心に耳を傾けるばかりか、さらに進んだ議論を展開しようとする温度の高さにあっという間に濃密な時間が過ぎた。

 カザフスタンは、歴史的・地理的な問題から、いくつかの民族が混ざっており、比較的日本やモンゴルに近い顔立ちの人もいれば、ヨーロッパに近い顔立ちの人もいる。しかし、誰もが同じ瞳の輝きで、少しでも話を聞き漏らすまいとする姿勢は、情報に溢れている私には新鮮でかつ刺激的な時間だった。最後に、記念写真を撮ろうと私が提案をしたら、皆さんは、その前に劇中でも歌われた『ふるさと』を歌いたいと、伴奏もない応接間で披露してくれた。聞き慣れた日本の歌であるはずなのに、にこやかに歌うカザフスタンの人々を見ていたら、涙が溢れ出た。同時に、国籍、言語、肌の色に関係なく、「心」を伝えられる「演劇」の力を改めて感じた。

 日本の演劇人の一人として、どういう形でカザフスタンの方々との文化交流をお返しできるか、大きな宿題をもらったような気がしたが、気持ちは晴れ晴れとし、大使館を後にした。
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▲「国立アカデミー劇団の皆さんと」