年間十二か月の歌舞伎公演が当たり前になり、他の劇場でも歌舞伎公演を行うのが常態となっている今、毎月の公演が大当たりを望むのは難しい。観客としてはそれを期待したいが、そうも行かないのが現状だ。それにしても、今月の夜の部は、演目の選定や並べ方に「異議あり」というところだ。大幹部クラスは松本幸四郎、中村吉右衛門、片岡仁左衛門の三人。この三人が中心になる演目が据えられるのは当然の成り行きだが、夜の部は吉右衛門の出演はなく、昼の部は仁左衛門が出ていない。夜に幸四郎が二本の演目に出演しており、さらには夜の部は舞踊のような軽い息抜きの幕がない、というのも問題だ。オリンピックを前に、外国人の観客など新たな観客を開拓するためには、開演時間や上演時間の長さもさることながら、今までのような演目の並べ方を根本的に考えることも、歌舞伎に課せられた課題の一つだろう。

 最初は幸四郎の佐々木高綱、中村雀右衛門の時姫、尾上松也の三浦之助、片岡秀太郎の長門、の顔ぶれで『鎌倉三代記』。時代物の名作で、特に時姫は、「三姫」とも呼ばれる姫の代表的な役柄ではあるが、いつものようにこの場面だけを上演しても、皆目わからない部分がある。この前の部分を少し整理して上演すれば、時姫の絹川村の閑居での暮らしぶりが具体的にわかり、芝居が面白くなるはずだ。

 雀右衛門の時姫は相変わらずの若々しさで、松也を相手にできるという感性は先代の父親譲りだ。ただ、「当代らしさ」の魅力をもう少し前面に押し出してもよいだろう。松也の三浦之助が、この幕では殊勲賞ものと言える出来だ。颯爽とした若武者ぶり、柄、適役である。ぜひ持ち役にしてほしいものだ。幸四郎は最近、芝居にとみに軽さを増しているように感じる。それは『一本刀土俵入』でも顕著に現われているが、この高綱も、身分をあらわす前の藤三郎の飄々とした芝居が面白い。秀太郎の母・長門。こうした役どころを演じられる役者が少なくなっているのも問題だ。
 幕切れ近く、佐々木高綱の語りを、回りの人物、すなわち雀右衛門の時姫、三浦之助の松也、門之助のおくるが聞いているが、客席から観ると、幸四郎の芸を、それぞれの役者が眺めているように見える。言うまでもなく、登場人物それぞれの心根で、役の人間としてこの語りを聴き、観るべきだろう。

 次いで、仁左衛門、市川左團次の『御所の五郎蔵』。仮花道を作り、客席を飛び越しての科白のやり取りは歌舞伎の贅沢の一つだ。仁左衛門の五郎蔵は、颯爽とした侠客の姿を見せ、対抗する左團次の星影土右衛門と良い釣り合いだ。雀右衛門の傾城皐月、中村米吉の傾城逢州、甲屋与五郎は中村歌六。歌六の役は女形が「留め女」として出ることがあるが、立役、女形いずれにしても二人の大立者が喧嘩に成りかかった場面を止めるだけの器量が必要な役だ。雀右衛門の逢州、さすがに傾城が似合う。

 ただ、この幕だけの上演だと、雀右衛門の持つ「憂いの美」が活きないのが惜しい。元来、この物語は「助六」のようなカッコいいアウトローの物語ではなく、そこまで行き付けない、いわば半端者の五郎蔵と皐月が哀しく死んでゆく結末が用意されている話だ。歌舞伎の場合は往々にしてあるケースだが、長い物語の一部分を上演すると、物語の内容が大幅に変わって観客に理解されることがある。この芝居に関しては現行の上演形態ではこの場面を中心に上演するしかないのだろう。米吉の逢州はまだまだ芝居が固いが、大先輩たちの胸を借りての、良い勉強のチャンスを得た。

 最後が『一本刀土俵入』。歌舞伎というよりも時代劇の名作で、いつしか歌舞伎のレパートリーとして定着した長谷川伸の作品だ。幸四郎の駒形茂兵衛という関取見習いに、酔っぱらった気まぐれからその場で持っていたものを施す宿場女郎のお蔦。十年後に、約束した横綱にはなれずに「博徒」になった茂兵衛が恩返しに来るものの、当時とは全く様子が変わっている。そんな中、やっと探し当てたお蔦は、茂兵衛のことを思い出せない…。

幸四郎は茂兵衛を若々しく、軽く演じている。自分が体よく追い払われたことに気づかず、横綱になると約束をする世間知らずぶりがにじみ出ている。また、生まれ故郷の「駒形」(群馬県)の訛りが抜けない、という演じ方をしている。なるほど、この方が役にリアリティが出る。もう一つ感心したのは、利根川の土手で人違いをされ、地回りに切り掛かられるところだ。笠の紐を結び終わるかどうか、というタイミングで切り掛かられるので、頭に笠の台が残るという見た目の悪さがなくなる。どうでもいいような細かな話だ、と思われるかもしれないが、歌舞伎とはこうした細かな積み重ねや試行錯誤の結果、今の形があるのだ。
市川猿之助のお蔦、夜の部はこれ一本だ。今までにいろいろな役者のお蔦を観てきた。先代雀右衛門、中村歌右衛門、尾上梅幸、河原崎国太郎、歌舞伎以外では三浦布美子、朝丘雪路…。

 猿之助のお蔦は、新解釈なのだろうか、演じ方が全く違う。序幕の「安孫子屋」で、酔っていないのだ。科白の調子もかなり張った芝居で、「どうでもいい投げやり感」がない。ここで、あまりきっちり芝居をしてしまうと、十年後にすっかり固くなって所帯を持ち、子供まで設けた地味な暮らしの中で、茂兵衛のことを「「思い出せないねぇ…」というところにつながらない。序幕は酔った挙句に、口から出任せを言っている、荒んだ暮らしの中の「点景」なのだ。猿之助なりの模索の中での一つの結論だとすれば、役柄には合っているのだから、役の解釈と演じ方の流れを変えれば、より効果的だろう。
老大工は澤村由次郎と松本錦吾。何気ない日常生活の会話をしているだけだが、こういう芝居はこの二人がいいと、場面に詩情が漂い、味わいが深くなる。
地回りの若頭とも言うべき掘下根吉は松也。少し江戸前すぎる風情はあるが、そこは芝居だ、柄としては悪くない。親分の波一里儀十は歌六。どこと言って見せ場もしどころもない役だ。こういう役を貫禄で見せられることが重要でありベテランの力だ。お蔦の亭主・辰三郎は尾上松緑。科白が少しもたつく感がある。根吉とはかぶらないような形での粋な部分があってもよい役だろう。昼の部で一本主役を演じているとは言え、夜の部がこれだけ、というのはいささか気の毒なようだ。

 歌舞伎界を見渡すと、若手の意欲的な外部とのコラボレーションや新作の上演などが目に付くが、それは次の世代の観客のために必要な行為だ。しかし、本来の古典歌舞伎やそれに類する作品を、まずはきちんと演じられるようになった上で、さらに可能性を広げるための一手、だとも思う。書道で言えばまずは「楷書の芸」を身体に叩き込んだ上で、新たな工夫としての「行書」や「草書」で役者の個性やアイディアも活きる。今、若手と呼ばれる人たちが、楷書の芸を勉強するには良いチャンスと言える時期のはずだ。ベテラン勢が過重労働になる中で、それを支え、芸を吸収する機会をもっと作ることもこれからの歌舞伎の課題だろう。一番難しいのはそのバランスにある。そういう点では、今月の夜の部は松也や米吉がいい塩梅でベテランの胸を借りることができ、横綱の芝居も堪能できた。

 その上で、歌舞伎の活性化のために、次の一手をどう打つか、まだ目は離せない。