八月の歌舞伎座で恒例となった三部制の公演、今年も若手が大いに汗を流している。古典、新歌舞伎、新作など、バラエティに富んだ演目が並んでおり、若手・花形と呼ばれる世代の役者たちのエネルギーの発露を感じる。第三部は、野田秀樹が坂口安吾の『桜の森の満開の下』などの作品をもとに、自らの世界観で劇化した『野田版・桜の森の満開の下』。1992年の初演時は『贋作・桜の森の満開の下』となっていたが、脚本の内容も変わり、今回の「野田版」が決定版とも言えよう。亡き中村勘三郎の盟友でもあった野田秀樹の作品を、遺児の中村勘九郎・七之助の兄弟を中心に演じることに、勘三郎へのオマージュが感じられる。

 今までに多くの新作歌舞伎が宮藤官九郎、三谷幸喜などの人気作家によって提供されて来たが、この『野田版・桜の森の満開の下』は、明らかにそれらの作品とは一線を画している。結論を先に言えば、メンバーを替えての再演に耐え得る新作歌舞伎が登場した、ということだ。これは、この作品だけではなく、野田が歌舞伎に対して提供した作品に共通して言えることだ。なぜ、野田作品が新作歌舞伎として再演に耐え得るのか。当然、芝居として面白いからに他ならないが、もう一つ大きな理由がある。それは、「歌舞伎座、ないしは歌舞伎が持つ呪縛と因習に囚われない自由さ」だ。舞台の上で、「芝居」としてふざける事も自由なら、どんどん「今」を取り込んでいるしなやかさもある。そういう点では、いわゆる「古典歌舞伎」を見慣れた観客には、「これが歌舞伎?」という不満や疑問はあるだろう。しかし、伝統は時として破壊されながら守られるものだ、という観点から考えれば、この自由さを持つ野田秀樹の作品を歌舞伎座で上演することの意義は大きい。

 さて、『桜の森の満開の下』である。野田秀樹の芝居は幾つもの薄いパイが重ねられているような重層的な構成で、更に見過ごしがちな多くの罠が仕掛けられているだけに、簡単に粗筋を説明するのは難しい。乱暴を承知で言えば、天智天皇の治世、ヒダの王なる人物の元へ三人の匠が集められ、三年間の間に仏像の彫刻を作成することを命ぜられる。三年後、天智天皇が亡くなり、天武天皇が即位して大仏の開眼供養が行われる。その時…。ということになる。

 登場人物の名前も変わっており、「古代」の話であるために納得はするものの、野田流のひねりが利いている。勘九郎の「耳男(みみお)」、七之助の「夜長姫」、梅枝の「早寝姫」、猿弥の「マナコ」、染五郎の「オオアマ」など。扇雀の「ヒダの王」も、漢字の「飛騨」ではなく「ヒダ」だ。もちろん、この名前一つにも意味や謎があり、それは芝居が進むにつれて明らかになる。まるで、ジグソーパズルの完成までを観ているような芝居だ。
 ただ、もったいない点が一つある。野田作品は、「スピード感が命」という側面があり、速射砲のように台詞がやり取りされる。良い悪いの問題ではなく、歌舞伎の台詞とは明らかに「間」が違う。それに乗り切れず、ただただ台詞を言うのにいっぱいで、肝心の内容がはっきり聞き取れない役者がいる。もっとも顕著だったのが猿弥で、場面によってはただがなり立てているだけのように聞こえ、せっかく笑いにつながる場面が生きない。勘九郎にもそういう場面が見られた。尤も、これは本質的な問題ではなく、スピード感はそのままに、舞台を練り上げれば解決できる問題だ。染五郎のオオアマは、前半と後半で役の性格が変わる様子を、面白く見せた。役柄上、早い台詞がそれほど多くないこともプラスに転じた感がある。
 
 幾つかの問題はあったにせよ、この芝居は「成功」だと私は思う。その理由は、先ほど述べた「呪縛」からの解放、また、これもそのうちなのだろうが、洋楽が流れて幕になることに何の不自然さも与えない感覚。もう一つ、初日のせいもあったのだろうが、歌舞伎には異例のカーテンコール(他の劇場で観られる、観客の希望に関係なく、劇場側が強制的に行うものではなく)が起きたことだ。昨今、歌舞伎でのカーテンコールもさして珍しくない時代になったが、明らかに観客の温度の高さが感じられた。そうでなければ、カーテンコールなど起きるはずはない。「文句の付け所がない」とは言わないが、観客が望んでいる新作歌舞伎の一つの方向性を、現在活躍する若手たちが中心になって生み出したことが示すものは大きい。

 江戸の昔にも、こうしたいささか破天荒とも言える芝居が観客に受け、古典として残った作品はある。これから100年後に、『野田版・桜の森の満開の下』が未来の古典歌舞伎のレパートリーの一つになるような感覚を感じた。この感覚を、歌舞伎の創り手が持つことがいかに大事か、を知る公演でもある。