シェイクスピアの作品群の中では、『ハムレット』や『マクベス』などのいわゆる「四大悲劇」に比べると、上演頻度ははるかに少ない。1971年にニューヨークで初演されたミュージカル版はトニー賞も受賞しており、それを日本風に味付けするために上演台本・演出・振付を宮本亜門が行っている。

 一言で言えば、現代の祝祭劇としてこの作品を新しい角度から眺めようとした試みが、今回の宮本演出の見どころだ。シェイクスピアお得意とも言えるふた組の男女の恋が入り乱れ、それを妨害しようとする人々のドラマが、イタリアの片田舎・ヴェローナとミラノを舞台に展開されるが、宮本演出は日比谷公演の人々を大きなスクリーンに投影するところから始まる。時代を超えて、人々が愛し合うことの大切さを全面的に押し出している。

 もとよりシェイクスピアの芝居には「著作権」がなく、どう換骨奪胎しようと自由である。まして、この作品は初期のもののせいか、ドラマとしての完成度もそう高くはないために、演出家としては大いに「遊びごころ」をそそられる作品でもあろう。

 ヴェローナからミラノを目指して出て来る二人の若者、プロデュースに西川貴教、ヴァレンタインに堂珍嘉邦と、二人のミュージシャンを据えたところが感覚的には新しいとも言える。二人が恋する相手には、ジュリアに島袋寛子、シルヴィアに霧矢大夢、プロデュースの召使・ラーンスに坂口涼太郎、ヴァレンタインの召使・スピードに伊礼彼方。シルヴィアの父親のミラノ大公にブラザートム、シルヴィアに惚れている富豪・チューリオに武田真治という顔ぶれだ。

 発想は面白く、テンポの良い音楽も悪くはないのだが、主役の二人の男性、西川と堂珍がいかにも弱い。ミュージカル俳優として経験を積んでいるわけではなく、芝居に変な癖がない代わりに、二人で全体を引っ張るだけの力が出ない。人柄の良さは伝わって来るのだが、それを超える勢いに欠けるのが惜しい。コンサートのように、芝居でも観客全体を呑み込むことができないのだろう。

 登場人物の多くがそうした中途半端な見え方になり、まとまってはいるが、舞台としての密度が薄くなっているのは事実だ。主演の二人を傍で支えながら芝居を引っ張れる脇役がいないからだ。しかし、その中で異彩な芝居を見せていのが武田真治だ。若い頃から儚げな危うさを持っている役者だが、今回の異彩さは、危うさにもつながる弾けっぷりだ。一人群を抜いた「怪演」とも言える芝居は、彼が20年近く前に舞台デビューした『身毒丸』で見せた雰囲気をまだ保っているようだ。本来は狂言回しのような役どころだが、この舞台、完全に彼に奪われた感覚がある。

 年齢、キャリア、分野の違いはあろうが、舞台は場数を踏むことに大きな意味があることが、こうした舞台を観るとよく分かる。演出の観点は悪くないだけに、もう少しブラッシュ・アップして見せることも可能だろう。どの分野の作品でも同じだが、古典を現代の感覚でどう見直すか、という仕事は、今の演劇界には必要な仕事だ。一度の挑戦で諦める必要はない。