今、「チャールズ・ディケンズ」という文豪の名を挙げた時に、我々の頭に即座に思い浮かぶのは『クリスマス・キャロル』ぐらいのものではなかろうか。『オリバー・ツイスト』や『二都物語』も映画化、舞台化されており、どこかでご覧になった方も多いだろうが、『大いなる遺産』辺りになると、そろそろ忘れられているかもしれない。日本で言えば幕末から明治初期に生き、多くの作品を残した英国の文豪の、最期の作品がこの『エドウィン・ドルードの謎』だ。ディケンズの他の作品にはないミステリーで、「世界初の推理小説」とも言われている。しかし、この作品を執筆中にディケンズは急死し、「未完」に終わっているのだ。ディケンズの頭の中には、結末や犯人が明確になってはいたのだろうが、少なくもその結末は明らかにされてはいない。つまり、この作品は「途中で終わった推理小説」ということになる。

 それをミュージカルの舞台に脚色したものが1985年にアメリカで初演された。ロンドンの音楽堂で、あるカンパニーが『エドウィン・ドルードの謎』を上演している。途中、エドウィンが消えた場面で芝居は終わり、座長が観客にアンケートを取ってまず探偵役を決め、その後、犯人役が決まる。ここには一切の「ヤラセ」はなく、観客の投票数で決められるために、探偵と犯人の組み合わせにより変わる結末は何と「288」に及ぶ。ユニークなアイディアに富んだ観客参加型のミュージカルが、福田雄一の日本版上演台本・演出により日本で初演された。

 今までにも、観客の意思により結末が変わる、という芝居がなかったわけではない。2001年に劇団スーパー・エキセントリック・シアターが上演した『パジャマ・ワーカーズ On Line』は、劇中でバスケット・ボールの試合が行われ、その勝敗によって結末が2通りに分かれるという仕掛けだった。これも面白い試みで、作者の吉村達也の斬新さを感じさせたが、さすがに今回の288通りの結末には及ばない。芸能への観客参加の方法は数々あるが、観客全員の多数決によって芝居の行く末が毎回変わる、というのは役者にとってはまたとない緊張感であり、遊び心をくすぐられる物でもあろう。
 
 劇場の支配人を演じる山口祐一郎。日本のミュージカル界には欠かせない人物だが、今回は他の舞台とはまるで色合いが違い、こんなに軽い芝居ができるのか、というぐらいのノリを見せる。壮一帆、瀬戸カトリーヌ、今拓哉、保坂知寿、コング桑田らの腕利きに、平野綾、水田航生らの若手が加わり、いくつものカラーがある舞台だ。役者が持つ個性を、いかに活かして引き出すか、福田演出にはその目配りが利いている。山口祐一郎が弾けているのにつられてか、誰もがそれぞれの「弾けっぷり」を見せる。保坂知寿も、今までにはない一面を見せ、客席を笑わせている。
芝居の内容は確かに「犯人探し」のミステリーだが、随所に「これでもか」というほどの小ネタが配置されており、役者がそれに乗る。こういう芝居は、観ている方も一緒にその波に乗って楽しんでしまうのが一番だ。芝居が進むごとに舞台と客席の距離がどんどん縮まるのが感覚的にわかり、特に二幕、「探偵の選定と犯人は誰か」という解決の部分になると、役者と観客が一体化して大きな盛り上がりを見せる。

 この日は、探偵役を初めて演じる、という女優が謎を解き明かすことになり、選ばれた犯人も初めてという組み合わせだった。役者は大変な想いをするだろうが、客席を大いに沸かせた。とは言っても、全編がコントやお笑いで綴られているわけではない。ミュージカルとしての歌とドラマが最初にキチンと構築された上での「遊び」になっているから成立するのだ。「演劇」を含めたエンタテインメントが多様化のスピードを速める中、舞台が持つ可能性の幅の広がりを見せた一つの結果、と言えよう。すべての結末を観ることはかなわないが、それを想定してこの舞台を創った人々の苦労を讃えたい。