1984年に53歳で亡くなった有吉佐和子の小説を劇化したこの作品、一体何度にわたって劇化、あるいは映像化されたことだろうか。1961年に発表された小説が1973年に小幡欣治により脚色され、初演は芸術座(現・シアタークリエ)だった。以来、キャストを変えながら東宝、新派などで上演されているが、文化座での初演は1977年のことだ。

 舞台は昭和30年代後半の東京。小さな金融会社の社長が愛人の家で急死し、そこに本妻と、社長とはたった一人血のつながった、60歳を過ぎても恋愛経験のない妹が来る。やがて、本妻の家に愛人、妹との奇妙な共同生活が始まる。この個性的な三人が「三婆」ということだ。老人が元気な現代社会でこんなタイトルの芝居を創ったら抗議が殺到しそうだが、そこは半世紀前のこと、60歳でも充分に「婆さん」だったのだ。しかし、この作品がいまだに繰り返し上演されるのは、テーマが古びないこと、原作が優れていることはもちろん、小幡欣治の脚色が優れているからに他ならない。

 関係性や立場はそれぞれでも、大事な人を喪った三人の女性が同居し、毎日が喧嘩の連続である。しかし、時間が経つにつれて、憎むべき相手も自分の大事な人との時間を愛しく共有した「仲間」であることがわかってくる。しかし、それは理性の問題であり、同居している上での感情とはまた別の問題だ。やがて、三人がバラバラになる時に、いくら憎らしい相手であっても、今の寂寞とした感情を共有し、補える相手であることに気付く。そして、また奇妙な関係の「三婆」の暮らしが始まる。

 この芝居の中に、「今の若い人たちは、自分だけは年を取らないと思っている」という内容の台詞がある。「老い」、その先にある「死」を拒否して見ぬ振りをし、若く見られることが勲章ででもあるかのようにいろいろな行為に励む現代の『アンチエイジング』に対する強烈な皮肉にも聞こえる。どんなに鍛錬をしても「老い」は進む。それを受け入れ、老いと共に生きることの方が、若さを保つよりも人間として大切であることを現代人は忘れてはいませんか、という脚色者の声が聞こえてくるようだ。

 さて、演技陣である。本妻の松子が佐々木愛、妹のタキが有賀ひろみ、愛人の駒代に阿部敦子。いずれも文化座の「三婆」とも言うべき大ベテランたちだ。描き分けられた役の個性をしっかりつかまえて、足に地のついた芝居が頼もしい。無闇に笑わせようとするのではなく、哀感や打算、寂しさなどの感情がほの見えるところにリアリティがある。この作品の凄いところは、初演以来、三人の主役となる女性に、他の舞台であれば脇へ回ってその巧さを発揮する女優を持ってきたところだ。文化座の今回のキャストは、劇団で鍛え上げられているためか、主役も演じれば脇へも回る、という経験を繰り返して年功を積んできた女優たちだ。ここに、現在の大劇場演劇で取り上げる『三婆』との大きな違いがある。

 山﨑麻里や皆川和彦、筆内政敏らの若い座員が育ってきたのも楽しみで、男性陣では唯一とも言える重要な役、かつての社長の部下・重助の佐藤哲也も座歴30年近くになり、三人と互角の芝居である。劇団の創立世代、鈴木光枝らを中心に356ステージを重ねてきた作品を、今の文化座を担う世代により、新しい形で多くの観客に「人生の一部」を切り取って見せてほしいものだ。