2020年3月、「新型コロナウイルス」が燎原の炎の如き広がりを見せ始めた中、文化座とは縁の深い作家、三好十郎の代表作の一つ、『炎の人』が上演された。評判が良かったにも関わらず、最後の2ステージを残して公演中止となった。以降、「緊急事態宣言」の発出などで事態は深刻化し、舞台は続々と中止を余儀なくされ、私の観劇記録も、2020年は一旦この『炎の人』で止まっている。

 以来3年、鵜山仁の演出で、藤原章寛がゴッホを演じる『炎の人』が帰って来た。幸か不幸かは分からないが、彼の世代は、伝説とも言える昭和26年の初演以来、数を重ねた劇団民藝の瀧澤修のゴッホの名演は知らない。それと比較して論じる必要はないが、古い観客の中には瀧澤ゴッホが眼の中に残っている観客もいるだろう。私も、今までに瀧澤修、市村正親のゴッホを観て来た。しかし、今回はそうした舞台とは違った、新たな発見があったのは嬉しいことだった。

 我々はゴッホを「偉大な画家」「死してのち評価をされた不遇な画家」として知っており、現在、その作品の多くを鑑賞できることが可能な状態にいる。あるいは、バブル期に名作「ひまわり」の一点が、信じられないような金額で取引されたエピソードなども頭の中にある。それは、逆に言えば画家としても人間としても、未完成から完成へと向かう途上で、悩み苦しみ、藻掻きながら若くして人生を終えた人間ゴッホの偉大な名前を剥がしてみることはなかなか難しいとも言える。

 しかし、藤原が演じるゴッホには、他の人間同様あるいはそれ以上に生の感情を剥き出しにし、純粋に悩みや苦しみ、弱さを見せる「未完成の魅力」がある。これは、演技が下手だという意味ではない。ただひたすらにキャンバスに向かい合うこと、そこに何をどんな色で書くのかのみを考え、友人のゴーガンやロートレック、ベルナールなどの画家に影響を受け、議論を吹っ掛ける。彼が演じるゴッホは、人間としても画家としても、我々が偉大な画家として名を知るまでの過程を丁寧に、かつ緻密に演じている。3年前の舞台に比べ、更なる研究と工夫の余地が見られ、充分期待に応えたと言えよう。

 藤原の熱演を支える劇団の仲間のアンサンブルが優れている。白幡大介のゴーガンは「傲岸」と翻訳しても良いほどの不遜さを見せるが、そうでなければあのような生き方はできないだろうと納得させる。また、炭鉱夫と画家のシニャックの二役を演じている佐藤哲也が、この俳優の持ち味である柔らかな温かさを、役の個性に合わせて演じ分けているのも好ましい。人の好さを見せる絵画屋・タンギィの青木和宣には人生の年輪を感じ、以前はタンギィのおかみを演じていた佐々木愛が、今回は第一幕で子供を亡くした老婆に変わり、その圧倒的な存在感は見事だ。魅力的な笑い声が相変わらずの特徴だが、作者の三好十郎はこの笑いを「笑ってる。泣くかわりにな…」と炭鉱夫に言わせる。見事な台詞で、この瞬間に佐々木愛の笑い声は、息子を炭鉱で亡くした母親の慟哭にも聞こえる。

 ここで注意しなくてはならない点がある。ゴッホが偉大な芸術家であることは論を俟たない。しかし、三好十郎がこの作品を発表した時点と現在では70年以上の時間の隔たりがある。その間に、ゴッホに対する我々の認知度・情報量は圧倒的に増加した。現代人の視座でゴッホ、あるいはこの作品を観てしまうと、誤解が生じる恐れはないだろうか。三好十郎は、「偉大な画家の生涯」だけを芝居にしたかったのではなく、貧しく、苦しい生活を送る人々の中で、自分が目指す「画家」への道を、腸の捻じれるような想いをしながら歩むゴッホの姿を借りて、一人の人間像を炙り出したかったのではないだろうか。或いは、有名無名を問わず、人生は未完成のまま終えるという遣る瀬無い人生の宿命を、ゴッホの生き方を通して描きたかったのではなかろうか。

 もしそうだったのだとすれば、鵜山仁の演出と文化座の好演は、作者の願いを果たしたことになる。どっしりとした見応えのある芝居だ。