「不条理劇」の代表作として、ベケットの『ゴドーを待ちながら』と双璧をなす、というほどに上演されている芝居だ。登場人物は三人、上演時間も一時間に満たない「小品」だが、そこに込められたメッセージは、観客を混乱も惑乱もさせる。イヨネスコ(1909~1994)はフランスの不条理演劇を代表する劇作家だが、そもそも「不条理」とは何を指すのだろうか。簡単に言えば、演劇、特にヨーロッパの古典演劇のルールを無視した、「あり得ない」事象が芝居の中で展開していく、ということだろうか。

 この『授業』も、自分の家で個人授業を行う老教授が、講義を受けに来た若い女性を相手に話しているうちにだんだんと自分の感情が激し、相手の話と全くかみ合わなくなってしまう。その果てに、あろうことかその若い女性を殺してしまう、という展開になるが、実はそれは初めてのことではない。家に住み込んでいる家政婦も「またやっちゃんだんですね」という程度の感覚しかなく、まるで三度の食事のように「日常の当たり前の出来事」として捉えている。そこへ、また新しい若い女性が講義を受けに来る、という内容だ。

 一般的に考えれば、狂気の連続殺人犯の物語、ということになるはずだが、この芝居を観ていると、そういう感覚はなく、老教授の異様なまでのエネルギーと、噛み合わないながらも毅然と立ち向かい、自分の主張を押し通そうとする「闘い」のようにも感じられる。こうした不思議な感覚が「不条理」と言われる所以だろう。当たり前でしはないことが、いつの間にか当たり前、とは言わないまでもそれほどにおかしな行為ではなくなるような感覚になってしまう。そこに、本来の理路整然とした芝居の流れに乗らない不思議さと面白さがあるのだろう。

 日本でこの作品にスポットライトが当てられたのは、文学座を脱退し、「演劇集団 円」の結成に参加した中村伸郎(1908~1991)が、1972年から11年間、毎週金曜日の夜、通常の公演が終わった22:00という時間から演じ続けたことだろう。当時、渋谷の公演通りにあった、収容人員が100人程度の「ジアンジアン」という小劇場で中村伸郎は『授業』を演じ続けた。上演時間が約1時間の一幕物であり、若者が多い渋谷であえて22:00開演という、70歳を過ぎた役者としては斬新にして過酷な試みが徐々にブームを巻き起こし、小さな劇場であったために、開演前には行列ができ、私も何度も並んだ記憶がある。

 こうした性質の芝居だけに、500人も600人も入るような劇的空間で上演するには向かない。2013年に無名塾の仲代達矢があえて「秘演」と銘打って、世田谷の無名塾で演じた折も、観客数は100人に満たなかったのではないだろうか。この芝居は、そうした濃密な空間で演じることに意味があるのだ。「不条理劇」に意味を求めることにはいろいろな意見もあろうが、『授業』に関して言えば、演じられる「空間」が大きな要素を占める。その時に息苦しいような空間の中で人間の感情が爆発し、最後のカタストロフィを迎えるには、大きな空間はかえって邪魔なのだ。

 その中で緊張感と狂気を行き来しながらやり取りされる台詞の応酬は、今までの「芝居」の概念や感覚を覆すものかもしれない。芝居が終わった後で、「この芝居は何だったのだろうか」「何を言いたかったのだろうか」という感情が多かれ少なかれ観客に残るからだ。だから「不条理劇」なのだ、という安直な話をするつもりはない。ただ、そういう芝居もある、ということだ。