「大阪松竹座新築開場二十周年記念」「関西・歌舞伎を愛する回 第二十六回」の「角書き(つのがき)」が付いての、夏の大阪での歌舞伎だ。松竹座が開場してもう20年かと思うと、時の流れの速さに驚くと同時に、上方での歌舞伎公演がこうして続いていることにいささかの安心も覚える。もちろん、根付かせた上でさらに発展させるための、並々ならぬ努力と観客の支えがあってのことだ。どんなに良い芝居を上演しても、観客が劇場へ足を運んでくれなければ興行が成立しないのはどの芝居も同じ事だ。

 来年のお正月に十代目・松本幸四郎を襲名する市川染五郎、関西歌舞伎の重鎮・片岡仁左衛門を中心に、中村時蔵、中村鴈治郎、片岡孝太郎、尾上松也、中村壱太郎、坂東竹三郎らの顔ぶれが並んでいる。

 昼の部は染五郎が初役で挑む『夏祭浪花鑑』で幕が開く。個人的な体験だが、私が初めてこの芝居を観たのは昭和55年9月、歌舞伎座での「初代中村吉右衛門二十七回忌追善興行」で、十七世中村勘三郎の団七九郎兵衛だった。その折、子役の市松で染五郎もこの作品に出演している。役者と観客の違いはあれ、同じタイミングでこの芝居に触れたことになる。以降、12回の『夏祭浪花鑑』を観ているが、それでも昭和55年以降の上演回数の半分にも満たない。いかに、人気のある芝居か、ということだ。

 さて、上方狂言の代表作の一つを演じる染五郎、一言で言えば気力が充実して、初役とは思えない出来だ。こうした演目は、上方弁のアクセントやニュアンスが重要視されるが、3時間足らずで行き来できる時代、完璧な上方弁でこの芝居を上演することは、不可能に近い。結局のところ、「上方男の伊達」が芝居全体から匂い立つようであれば、この芝居の役目は果たせるのだ、と言えよう。「江戸の粋、上方の伊達」の感覚を、芝居の中で感じさせることが、「現代」における歌舞伎と観客との関係性の一つではあるまいか。

団七と伊達を競う一寸徳兵衛は松也。染五郎に比べると「男伊達」の感覚が物足りない部分がある。染五郎ともっと四つに組み、先輩に思い切りぶつかってもよいだろう。団七女房・お梶は孝太郎で今回四回目だそうだ。上方の人妻の色気がすっきりと漂うのがよい。上方の色気にも千変万化あり、ただ濃密なだけではない。鴈治郎が釣船三婦で付き合っており、持ち前の愛嬌が活きて、意外に良い。三婦の女房・おつぎに今年85歳の竹三郎が出ている。こうした役は大事なもので、上方の生活感が匂う。

 お辰は時蔵。上方の女性の濃厚な色気が匂い立つ儲け役なのに、惜しい事にサラサラと演じてしまい、せっかくの場面が活きない。この役は団七と二役で演じるケースが多く、染五郎も役によっては女形で充分その才を発揮できる役者だ。次回は、二役での『夏祭』を観たいものだ。強欲な舅を、義理に絡んでの出来事の結果、殺してしまう団七の心理描写が丁寧に演じられ、染五郎、熱演である。

次が、時蔵、孝太郎の『二人道成寺』。孝太郎は初役、時蔵は二回目だそうだ。初日間近のせいか、二人のイキが合っていないのが気になる。ここでも時蔵が、後輩をリードすべき立場にありながら自分のペースだけで踊ってしまっている。二人の女形が顔を合わせる意味がなく、もったいない限りだ。

夜の部は鴈治郎の三番叟、壱太郎の千歳の舞踊『舌出三番叟』で幕を開ける。「三番叟」は元来、神事の意味合いを多く含んでおり、今回の開場二十周年記念を寿ぐ意味でもよいだろう。鴈治郎の持ち味が出ている大らかな舞踊だ。

次が鶴屋南北の『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)。昭和51年に初代の尾上辰之助、坂東玉三郎、片岡孝夫(現・仁左衛門)が国立劇場で復活上演した作品で、『五大力恋緘』(ごだいりきこいのふうじめ)、『仮名手本忠臣蔵』などの世界を綯い交ぜにした作品である。かつては、串田和美の演出で、亡き勘三郎が渋谷のシアターコクーンで演じ、南北の世界感を新しく表現しようという試みもなされた。

芸者・小万に愛想尽かしをされた薩摩源五兵衛がその恨みで何人もの人を殺してゆく、という復讐劇だ。ただ、それだけではなく、源五兵衛は実は赤穂浪士の一人・不破数右衛門という設定と、対立する三五郎の本心が最後にわかる仕掛けになっている。

仁左衛門が源五兵衛を持ち役にし、歌舞伎では「色悪」と言われる二枚目の悪人を怜悧な美しさで演じている。偶然、昼夜ともに殺人劇が並んだが、色合いが全く違っているのが面白く、「殺人劇の連続」という感覚にはならない。『東海道四谷怪談』で知られる南北の芝居には、「死」が独特の色と匂いを持って顔を出す。この『盟三五大切』も、誰もが忌み嫌う「死」を、美学にまで昇華した上で歌舞伎の様式として見せようとしたのではないかと感じる。それは、仁左衛門の源五兵衛に漂う美しさと退廃ぶりだろう。小万は時蔵で、亭主の三五郎が染五郎。仁左衛門に対する染五郎の小悪党ぶりと、最期に見せる情感が秀逸だ。

ただ、芝居全体の印象が暗いのと、南北作品の中でも入り組んだ人物の感情表現をどう見せるかが今後の上演に当たっての課題になるだろう。昭和の終わり近く、復活されてわずか40年と少しの時間しか経っていないこの芝居を、このまま埋もれさせてしまうのも惜しい話だ。
台本を再構築し、もっとスピードアップした展開で、面白く見せる余地のある作品だと思う。感情表現の手助けとして流れる「二胡」の調べが、哀切な人物の心情を現わしており、改めて歌舞伎の複合的な懐の深さに想いを馳せる場面もある。

 周囲を固める上方の脇役たちの健闘もあり、濃密な舞台になった。改めて感じたことだが、松竹座の空間は歌舞伎座ほど広すぎず、歌舞伎の楽しみを味わうには適切な大きさの劇場だ。かつて、同じ道頓堀に「中座」という劇場があり、この大きさが歌舞伎の味わいを濃くしていたことを懐かしく想い出した。