今年は、今も文学や芸能に大きな影響を与えている泉鏡花の生誕150年に当たる。そのゆえか、各地で鏡花作品の上演や朗読などが盛んに行われているのは好ましいことだ。今も上演される戯曲で有名なものは、新派の代名詞のように語られる『婦系図』、『日本橋』や、幻想的な世界を描いた『天守物語』、『海神別荘』、『高野聖』、そして今上演されている『夜叉ケ池』辺りだろうか。しかし、まだ他にも佳品はたくさん眠っており、この機会にそうした作品の再発掘や再評価もできればなおいいだろう。

 鏡花を語る時に、枕詞のように出てくるのが「難解だ」とのイメージだ。明治から昭和に掛けての、現代からは遥か遠くなってしまった時代の、綺羅錦繍を編むような言葉で綴られた言葉は、確かに難解で、全集のうちの一冊を読了するのも簡単ではない。まして、学校教育でほとんど明治文学を扱わなくなった昨今、よほどの覚悟を持って臨まない限りは、鏡花との距離はどんどん離れるばかりだ。言葉は時代と共に変容する宿命を持ってはいるものの、せっかくの文化的財産とも言うべき作品が埋もれるのは哀しいことだ。今回のように、若い世代の俳優を中心に現代の感性、肉体で鏡花の作品をどう見せてくれるのか、は楽しみでもある。

 鏡花を読む際に忘れてはならないのは、今は当たり前に使われている「幻想文学」のカテゴリーに入る作品の、明治以降の近代での魁の作家だということだ。今回の『夜叉が池』などは、まさに鏡花が得意とする幻想世界で編まれた物語だ。それを、現代の何でも表現可能な世界の中、どのように見せ、台詞を聞かせて観客の頭にイメージを描かせるかが最も大きな課題だろう。

 岐阜と福井の県境・三国嶽の麓。時は大正2年、激しい日照りで旱魃に見舞われている。諸国を旅する学士・山沢学円が山中を歩き疲れ、一杯の水を乞うと、美しい百合という娘が出て来た。茶代の代わりに百合から「お話」を求められた学円が、失踪した親友、萩原晃の話をすると、奥から何と当の本人が出て来た。なぜ、偶然とは言え山深いこの里に萩原がいるのか。それは、百合の夫となり、日に三度、鐘を撞く約束のためだという。約束の相手は山の奥の「夜叉ケ池」に棲む白雪姫で、もしも約束を破れば池は決壊し、麓の里を呑み込んでしまうという…。

 世を捨て、山に隠棲しながら鐘を撞く萩原に勝地涼、親友の学円が入野自由(いりの・みゆ)、百合が瀧内公美(たきうち・くみ)、白雪姫が那須凛(なす・りん)の顔ぶれだ。四人ともにいろいろな舞台でその個性を発揮しており、こうしたメンバーで鏡花の作に挑むのは面白い。演出は森新太郎、振付は森山開次。男優陣の清潔感、女優陣の透明感が突出しているのが特徴で、女優陣の静と動のコンビも適役だ。鏡花の難解で膨大な台詞のやり取りに追われ気味の部分が時折見られるのが惜しい。

 その一方で、今までいろいろな形で上演されてきたこの作品に、ダンサーの森山開次を振付としてこのカンパニーに加え、台詞を聴く「聴覚」だけではなく「視覚」へも訴える作品にしたのは面白い演出だ。この世の者ならぬ白雪姫の眷属たちの、群舞の表現、そして、見せ場の池の決壊シーン。今の技術を用いれば、迫力のある映像で見せることは以前よりも遥かに簡単になったが、あえてその手法を用いずに、あくまでも「舞台演劇」としての演出法が成功した。細部を書いてしまうと、ネタをばらすことになるので詳細は省くが、「なるほど」と思わせる工夫だ。

 「視覚」の点で言えば、舞台装置をあえて簡素にし、百合と晃が暮らす場所を舞台の下手に、そして「鐘」を舞台上手にと対局に配置した他には装置らしいものは何もないシンプルさだ。それが、鏡花の台詞が舞台空間を飛び交い、呼応し、乱反射することで観客へのイメージ想起を助けている。鏡花の台詞は、完璧に表現ができたとしても現代の観客がそれを理解することは難しいだろう。それを舞台という空間の中に一つの「空気」を生み出し、そこで感覚を伝えようとした演出でもある。

 生誕150年、歿後84年を経てなお多くのファンを持つ泉鏡花。果てしなく奥深い池のような作家が持つ味わいを、この機会にたくさん見せてほしいものだ。