最近、「LGBTQ」など性的マイノリティに対する理解が広がりを見せている。この「ダディ」も、男性同士の物語だが、それを受け入れる社会のありようという点でもう一歩踏み込んだ、一口で言えば「重さ」を孕んだ作品である。ニューヨークやロンドンで話題になっているのも、単にマイノリティと呼ばれる人々が大手を振って歩ける社会、という事のみではなく、そういう時代がいつか来たとしても、表面とは別に抱えている「心の闇」や「苦しみ」に焦点が当てられているからこそだろう。特に、キリスト教がイギリスやアメリカほどに根付いていない日本では、「神」に対する想いの強さがどこまで観客に伝えられるか、などの問題もあり、難しい作品だとも言える。しかし、小川絵梨子の演出が人物の心の襞を丁寧に描いているので、難解なテーマながらもすっと胸に落ちて来る。

 一体、「個性」とは何なのだろうか。それは、どこまでの主張を許されるものなのだろうか。「正常」と「異常」の違いはどこにあるのか。それを決める「社会」や「世間」の常識は固定したものではない上に、同じ現象の捉えようも千差万別である。それでも、茫漠とした枠組みはあり、そこからはみ出るとアウトローの烙印を押されてしまう。しかし、その基準も明確ではなく、また絶対に正しいとも言えない。そんな多くの問い掛けが、舞台にいる人々から客席に投げられているような作品だ。

 アフリカ系アメリカ人の若きアーティスト、フランクリン(中山優馬)は、LAの初老の裕福なアートコレクター、アンドレ(大場泰正)に出会い、二人は関係を深めてゆく。フランクリンの友人の俳優、マックス(原嘉孝)やインフルエンサーのベラミー(前島亜美)、ギャラリーを経営するアレッシア(長野里美)は二人の関係を否定するでもなく、アンドレの豪壮な邸宅で時に遊び、その裕福な生活の恩恵に預かっている。しかし、フランクリンの母、ゾラ(神野三鈴)だけは、厳格なキリスト教精神のもと、二人の関係に猛反対し、アンドレとも反りが合わない。やがて、アンドレとフランクリンが結婚することになるが、そのパーティの晩、とうとう事態は破裂する…。

 二幕構成で場面はすべてアンドレの邸宅と道具が変わらない中、舞台前面にプールが造られている。単に奇をてらったものではなく、このプールにも大きな意味があり、幕開きには中山がここから水着で飛び出して来る。これは、この作品においてのフランクリンの「誕生」とも取れるが、以降、登場人物の誰かの感情が暴発、あるいは何かを決断する時には、誰もがこのプールへ飛び込む。登場人物が多いわけではないが、ドラマの内容は濃密で、場面転換や重要な場面で黒ずくめの衣裳で登場する谷口あかり、菜々香の二人が効果的だ。

 主演のフランクリンの中山優馬、28歳の若さながら舞台経験が多く、主人公の複雑かつ繊細な感情の表現が巧みだ。特に、アンドレと母のゾラの敵対する感情に挟まれ、暴発しそうになる感情の抑制や、自分を理解してもらえないことへの苛立ちなど、いくつもの感情が入り混じった場面でその力を発揮した。かつて、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を演じた折に、中性的とも言える儚げな魅力を感じたが、それから数年を経て自分自身の素材に加えたプラスアルファの部分が見えたのは成長だ。

 神野三鈴のエキセントリックとも取れる母親像には共感も反発も覚えるが、それは役の本質をうまく捉えたということだろう。続いて、アンドレの大場泰正の、つかみどころのなさが面白い。見た通りかと思うとそうではない場面もあれば、非常にわかりやすい人物造型を見せる場面もある。これは、アンドレに限ったものではないのだろう。人間という生き物の複雑さを観る想いだ。

 最近特に激しい時代の移ろいの中、「新型コロナウイルス」やロシアのウクライナ侵攻、世界的な異常気象、食料不足など、我々の平穏な日常はいつの間にかかき乱され、元総理が凶弾に倒れる事件が日本でも起きるようになった。そんな世の中で、「劇的」なる物は、やはり複雑な人間の感情同士のぶつかり合い、せめぎ合いなのだ、ということを改めて感じる。同時に、我々が「常識」だと思い込んでいることの幾許かは、非常に脆い物の上に立っているのだということをも知らされた舞台だ。