昭和の歌舞伎の歴史を語る上で、絶対に避けて通ることのできない女形である。若かりし頃の美貌、芸の奥行の深さ、いずれも稀代の女形であったことは論を俟たない。幼少時より股関節に障害があったこと、また晩年の数年間は骨折などの怪我や体調不良で舞台にほとんど立たなかったこともあるが、あの華奢な身体で遺した仕事の数は膨大である。
 生涯を通して特筆して語るべきことは、父・五世歌右衛門に続いて、女形ながら昭和の中期から後期にかけての歌舞伎界での「覇権」を手中にしたことだろう。当時、史上最年少での芸術院会員、文化勲章の受賞など、位人臣を極めたという言葉がふさわしいが、これには当然周囲を納得させるだけの技芸が伴わなくてはならない。

 その美貌と芸を愛し、昭和を代表する作家の一人である三島由紀夫が愛し、歌右衛門のために数本の新作歌舞伎を書き下ろしていること一つを考えても、歌右衛門が婉然と放った香気が判ろうというものだ。私の知る歌右衛門は昭和50年代以降であり、その芸はすでに晩年に差し掛かっており、容姿を云々する時期ではなかった。しかし、その頃にはすでに幾多の「歌右衛門伝説」が、さながら都市伝説のように歌舞伎の中に出来上がっていた。観客にも、「歌右衛門の芸が判らないようじゃ、見物としてはまだ一人前とは言えない」という空気がはびこっていたのも事実だ。しかし、考えようによっては、そこまでの空気を創り上げてしまう歌右衛門は、自らを神格化させてしまうだけの実力の持ち主だったのだ。

 ここで歌右衛門の当たり役のそれぞれについて書き始めれば、恐らく膨大な数になるだろう。それらのほとんどは観ているが、別な場面での印象的な出来事がある。昭和56年12月、京都南座恒例の顔見世興行の事だった。夜の部の序幕に『仮名手本忠臣蔵』の『九段目』が出て、歌右衛門は当たり役の一つである戸無瀬を演じた。時代物の女形の役の中でも大役である。その時、私は何かの用事で、花道下の奈落を観客席から舞台方面へと歩いていた。戸無瀬は花道から出るため、花道の奥にしつらえられた「鳥屋」(とや)と呼ばれる場所で自分の出を待つことになる。まだ開幕には間があったが、奈落で花道へ向かう歌右衛門とすれ違うことになった。緋の打ち掛けに身を包み、お弟子さんに手を引かれ、足を引きずりながら歩いて来る歌右衛門は、とても小さく見えた。しかし、数メートル手前まで来ると、いいようのない威圧感が私を襲い、私は思わず狭い奈落の端に身を寄せ、目礼をして道を開けた。

 幕が開き、観客席で舞台を観ていると、しばらくして戸無瀬の出になる。「チャリン」と揚幕が開く音がして、傘を差し、しずしずと歩みを進めて来た歌右衛門は、わずか数十分前に奈落ですれ違った足の悪い小さな老優の姿など微塵もなかった。足の悪さも感じさせず、当たりを払う風格に満ちて凛としていた。19歳の私は、芸の力が見せる迫力にただ息を呑まれた。

 舞台に関する貪欲さや厳しさに関するエピソードは、それこそ山ほどある。その一方で、歌右衛門の「気配り」を知った事もある。
ある場所で歌右衛門の芸談の講座が開かれた時のことだ。学生だった私は、歌右衛門の車を、会場へ誘導する係を命じられた。到着予定とされていた時間の20分以上前から待っていたが、一向に車は来ない。約束の時刻を15分過ぎ、20分過ぎた頃、「歌右衛門はもう会場へ着いている」との連絡が入った。出迎えとしては失敗も甚だしい。息を切らせて会場へ駆け付けると、控室でにこやかに話していた歌右衛門は、話を中断し、即座に立ち上がると私に丁寧に頭を下げた。「お出迎えを頂いていたのに申し訳ございません。何かあるといけないと思ったものですから、30分も前に着くように家を出てしまって…。まず、お掛けくださいな、大変に失礼をいたしました」と。この場面で、賓客がたかがアルバイトの学生に頭を下げ、丁寧に詫びる義理はない。しかも、それまで話していた相手は演劇界の重鎮である。その話を中断したまま、即座に状況を読み取り、名もなき学生ににこやかに詫びた歌右衛門の姿は、舞台の素晴らしさとは別な想い出を私にもたらした。

現在、七世の名を襲名するはずだった甥の中村福助は病床にある。しばらく「歌右衛門」の名を芝居のチラシや看板で観ることができないのは残念だが、誠に大きな馥郁たる香気を放った大輪の牡丹のような女形が一代で遺した芸は大きい。