70年間に及ぶ女優人生の中で、休演したのは死に至る病を得た最期の数か月だけだったというだけでも、この女優の凄まじいまでの生き方が判る。杉村春子という、昭和を代表する女優に関してはすでに多くの書物が書かれており、ことさら私が自慢げに何かを述べる事もないだろう。

個人的な体験で言えば、昭和48年、国立劇場での文学座公演『怪談牡丹燈籠』を観て以来、最期の『華々しき一族』まで、東京で演じた舞台を見逃さずに済んだことの幸福は今でも感じている。誰もが当たり役として挙げる『女の一生』、『欲望という名の電車』、『華岡青洲の妻』、『華々しき一族』、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』をはじめ、山田五十鈴との共演『やどかり』から『流れる』、森光子との『木瓜の花』、水谷八重子との『風流浮世ぶし』、その他、想い出に残る舞台を挙げればきりがない、とはこの女優のことだ。もっとも、それほどの舞台を見せてもらった分、「当たらない役」を観ている事は、今となっては自慢のうちに入るかもしれない。

 着物の着方が抜群に巧く、多くの女優が参考にしたばかりではなく、翻訳劇にも当たり役を持つ万能選手の杉村春子を25年間観てきて気付いたのは、「これほどの名優でも苦手な芝居があるのだ」ということだ。杉村春子は煙草を吸わない。お酒も呑まないが、その仕草や芝居は、呑まないことを感じさせるものではなかった。しかし、煙草を吸う芝居は、明らかに「下手」と言っても良いほどの、この女優の唯一の欠点だったかもしれない。煙管ならまだしも、長い紙巻煙草だと、一服しただけで、もう持て余してしまうのだ。そして、そそくさと二服目を吸って、灰皿に押し付けてしまう。その仕草が芝居になっているので目くじらを立てるつもりはないが、天下の杉村春子にも弱点があることを発見して密かに喜んでいたのだから、始末の悪い評論家志望の学生だった。

 失礼を承知で書くが、杉村春子は同時代の女優で言えば山田五十鈴のような美人女優ではなかった。脇役の名演が光る『東京物語』や『赤ひげ』などの映画を観ても、決して美人ではない。しかし、不思議なことに年を重ねるたびに美しくなった。厳密に言えば、「美しい」よりも「匂やかな香気を放つ」顔立ちや仕草を見せるようになった。それは、寝ている間も芝居の事だけを考えているような女優だからこそ体得したもので、普通に年を重ねただけのものではない。研究に研究を重ね、自らが生み出した匂やかさ、とも言えよう。

 晩年、足の衰えが目立つようになった頃、山田五十鈴と共演した『流れる』は、名優が火花を散らす名舞台だった。正座の芝居から立ち上がる時に、熱心に舞台を観ていても、知らない間に立ち上がっているのだ。その不思議さを何とか解き明かそうと、次の機会に同じ場面を注意して観ていると、台詞を言いながらさりげなく長火鉢の縁に手を掛け、すっと立ち上がったのだ。「どっこいしょ」という感じではなく、ひょいと二、三本指を掛けただけのような感覚で、立ち上がった。この細かな工夫に、驚嘆したのを憶えている。

 名女優は決して一日にしてなるものではないのだ。亡くなる2年前には、女優として初の文化勲章の受賞対象となりながらも、辞退している。その理由は「生涯現役でいたいから」と言われたが、もう一つ、「私がこんなに大きな賞をもらっては、戦争で亡くなった仲間たちに申し訳がない」というものであった。私は、本意はむしろこちらにあるのではないか、と考えている。戦争中に命がけで後に代表作となる『女の一生』を上演したことを含め、多くの新劇人、中でも尊敬おくあたわざる先輩・田村秋子の夫であり、演劇人で初めて、と言われた友田恭助の戦死が大きく影を落としていないわけはない。

 最期となった文学座のアトリエ公演では、年齢は感じたものの「死の予感」など全くなく、その半年後に鬼籍に入ることなど想像もできなかった。これは冗談ではなく「杉村春子は死なない」と、誰もが本気で信じていたように思えてならない。私は、まだ彼女がどこか遠いところで地方公演をしているかのような気がしてならない。