初演以来35年、このステージが450回目となった松本幸四郎の『アマデウス』。今回と同じサンシャイン劇場での初演の舞台を懐かしく想い出すと同時に、もうそんな歳月が流れたのか、とも思う。映画化もされたこの作品は、天才として知られるアマデウス・モーツァルトと、その才能に嫉妬する宮廷音楽家・サリエーリとの確執を描いたドラマとして、今回が九回目の上演となる。サリエーリは一貫して幸四郎が演じ続け、モーツァルトは江守徹の初演を経て、その後、幸四郎の子息・市川染五郎、武田真治、今回は桐山照史。モーツァルトの妻・コンスタンツェは大和田美帆。

前回の2011年の上演時に、「この作品は凡庸なる音楽家と天才の確執として表現されることが多いが、サリエーリは天才を見分ける眼と耳を持っているという意味では天才であり、これは天才同士の喧嘩だ」という内容の批評を書いた。今回の舞台を観て、改めてその感覚を強くした。

 幸四郎が演出も担うようになってからは、モーツァルトとサリエーリの比重がだんだんに均等に近付いているような感覚になった。さながら二匹の大蛇が、縄のように格闘している姿にも見える。音楽に例えれば、幸四郎と桐山が主旋律と副旋律とを入れ替わりながら芝居が進んでいるようなイメージだ。今年75歳の幸四郎の演技は、前回よりもさらにボリュームを増し、圧倒的な迫力を持って迫って来る。確実に6年の歳月を経ているはずだが、以前よりも若々しいとさえ感じられる部分もあり、また、宮廷音楽家としての地歩を固める策謀家としての側面も見える。人間の厚み、と一言で言えば簡単だが、このボリューム感はそんな凡庸な表現ではすますことはできないものだ。幸四郎から「役者は進化するものだ」と聞いた事があるが、この舞台でそれをまざまざと見せられた感がある。日々の舞台の蓄積が、どこでどう現われるか、役者を長い年月観てゆく楽しみはこうしたところにもある。
来年には「二代目松本白鸚」を襲名し、長年馴染んだ幸四郎の名を子息に譲るが、ますます意気盛んである。

 対するモーツァルトの桐山が、好演とも言える成果を見せた。芝居のキャリアではかなわないが、持ち前の明るさが前半は芝居の雰囲気に合い、それだけに後半、だんだん見えない影に追い詰められる恐怖と、周りから評価されなくなる孤独が明確に見える。役に近付こうという芝居の仕方が、あざとくなく、自然だ。その結果、単に無邪気な天才、というだけではなく、モーツァルトなりの苦悩、尊敬と畏怖の念が相半ばする「父」という偉大な存在への想いが、きちんと見えたのは収穫だ。大和田美帆のコンスタンツェも、初挑戦ながら役の色合いがモーツァルトと良いバランスだ。この一風変わった夫婦は、「似たもの同士」のように見えるが、コンスタンツェがモーツァルトのすべてを理解し、包容する部分もなくてはならない。その加減が、このコンビはちょうどよい。

 日本で回を重ねている翻訳劇は、シェイクスピアなどの古典やミュージカル作品を除くと、それほどに多くはない。その中で、35年間にわたりサリエーリという複雑な心理を持つ役を醸成し、熟成させて来た幸四郎の、執念とも言うべき努力は見事なものだ。この想いがなければ、今回の舞台の成果はなかっただろう。どのジャンルの芝居でもそうだが、自分が演じている役を大切に温め、さらに発展させるかという基本的な問題が、慌ただしい世の中のサイクルの中で忘れられているような舞台に出会うことがある。創る側も幕を開ければ次の舞台、と追われ、疲弊しているのだろうが、そんな時代だからこそ、35年間の重み、というものが、より観客に迫るのだ。『幸四郎最後の』この芝居、それにふさわしい内容を見せた。