「日本のおかあさん」とお茶の間で親しまれ、舞台では作家の林芙美子の半生を描いた『放浪記』を90歳に至るまで実に2017回演じる、という金字塔を打ち立てた森光子。晩年に至っての元気ぶりには誰もが驚くところで、毎日スクワットを150回繰り返し、ジャニーズ事務所の若い俳優やタレントとの交流も若々しさの秘訣だった。国民栄誉賞、文化勲章と女優としても最高の栄誉を極め、スターになるのが遅かった分を一気に取り戻すかのような仕事ぶりで、舞台やドラマ、映画は言うに及ばず、志村けんとのコントでコメディの才能をも見せる多彩な女優だった。

 私が森光子を巧い役者だ、と最初に感じたのは、実は『放浪記』ではない。小野田勇が、関西で一世を風靡し、若くして病死した漫才師のミス・ワカナをモデルに描いた『おもろい女』だ。昭和54年に、芦屋雁之助とのコンビで演じた芸術座(現・シアタークリエ)の舞台だ。この折の観劇メモに、「芦屋、赤木も巧いが、幕切れの森の気迫が凄い」と書いてある。高校生の癖に生意気なコメントだが、これは間違いではなかった、と今でも思っている。良き相手であった芦屋雁之助が平成16年に亡くなって以降、段田安則を迎えて公演を続けていたことがそれを証明している。
 森光子自身が、同じ関西の出身であることや、ミス・ワカナ本人とも親交があり、一時は二代目を継がないか、という話があったほどで、主人公に相当近づけた理由も大きく影響はしていただろう。しかし、そうした状況はともかく、森光子は脚本に描かれているミス・ワカナを演じるのが本来の仕事であり、本人の物まねをする必要はない。我々が観ているのは、実在したが本人の姿は知らない、森光子が作り上げた女漫才師の生涯だった。観客を一瞬でその世界に引き込む力、その能力は、たぐいまれな物であったと言って間違いはないだろう。これは、『放浪記』、『おもろい女』、『雪まろげ』などの代表作だけではなく、誰と共演しても発揮した力だった。

 しかし、森光子を語る時、自ずと話題は前人未到の『放浪記』になる。この舞台を幾度観たか判らないが、容易に想像できる通り、半世紀を掛けて2,000回への上演への道のりは、決して平坦ではなかった。2010年5月の2,000回の舞台も、その月の千秋楽も観てはいるが、それと同じように忘れ難い舞台がある。
観客にも「2,000回」という大きな数字が見えて来た頃、彼女は2008年11月に名古屋の中日劇場で『放浪記』を演じていた。私が訪れたのは11月29日(土)の12:00の部、1989回目の舞台だった。この年は舞台のスケジュールが苛酷だったこともあったのだろうか、決して万全の出来、と言えるものではなかった。身分不相応にも親しくお付き合いをさせていただいていたこともあり、終演後、すぐに楽屋を訪れた私を、マネージャーは他のお客様とは別に、彼女と私だけにしてくれた。今まで肩で息をしていたような様子がやっと治まった頃、私に向かって黙って右手を差し出し、私はその手を握った。1分か2分だろうか、言葉を交わさないで手を握っている沈黙の時間が広い楽屋を支配していた。やけに加湿器の音が大きく聞こえたことを憶えている。
やがて、彼女の右目から一筋の涙が流れ、手を放した。「今日は何もお話できなくてごめんなさい」と、やっと一言を絞り出すかのように、舞台とは全く違った声で言った。しかし、黙って握手をしている間、私には、無言の想いが伝わって来た。明確な言葉ではなかったが、辛く哀しく寂しい想いだった。
「森さん、何をおっしゃるんですか。今、手を握って、充分お話しましたよ。大丈夫です。東京で、みんなが森さんのお帰りを首を長くして待っていますよ」

それから約1年半後、2,000回記念公演の帝国劇場では、見違えるほどに元気で、誰しもが「神が降りたとしか思えない」と言うほど若々しく溌剌とした芝居を見せた。確かにその通りだった。しかし、私が偶然経験した名古屋での苦悩があったからこそ、2,000回があったのだ。大記録の裏には苦悩がつきまとう事実を目の当たりにできたのは、批評家の幸福であった。