男優だけで構成している劇団「スタジオライフ」が、手塚治虫の後期の代表作の一つ、『アドルフに告ぐ』を上演している。一つの作品をいろいろなキャスティングで上演するのはこの劇団の特徴で、今回も「日本篇」「ドイツ篇」「特別篇」と三つのパターンがあり、「日本篇」と「ドイツ篇」では、更にキャストがダブルで組まれている。。他の舞台を観ていないので、ここでは「ドイツ篇」だけに触れるが、他の作品のようにキャストが変わるだけではなく、この作品は、ゴールが同じでもそこまでのプロセスが、バージョンごとに違っているようで、そこは興味深い。

 おりから戦後70年の節目を迎える今年、いずれかの形で戦争との関わりを描いた作品が数多く上演されている。どういう形であれ、観客がそれらの舞台を観て「戦争」に想いをいたすのは必要なことだろう。この『アドルフに告ぐ』について言えば、手塚治虫の全5巻にも及ぶ長編を、脚本・演出の倉田淳が良くまとめた、ということがまず挙げられる。創立以来の座付作者として、役者の個性を知り尽くしているのはもちろんだが、今までにスタジオライフが演じて来た皆川博子の『死の泉』、萩尾望都の『トーマの心臓』などで見せた彼女の脚色の巧さはかつてから認めるところだ。この作品にしても、骨太で難解な物をよくまとめたものだと感心する。

 この作品には、三人の『アドルフ』が登場する。筆頭にあげるべきは言うまでもなくかのアドルフ・ヒトラーであり、他の二人は、戦争中の神戸で出会い、親友となった同じファースト・ネームを持つ二人の少年である。アドルフ・カウフマンはドイツ総領事館に勤務するドイツ人の父親と日本人の母を持つ少年であり、もう一人はパン屋を経営するユダヤ人の子供、アドルフ・カミル。対照的な出自を持つ二人のアドルフは、本人の意志とは裏腹の人生を生きることになる。
アドルフ・カウフマンはドイツへ送られ、ヒトラーの元でナチズムに染まって行き、一方のアドルフ・カミルはヒトラーのユダヤ人虐殺の政策に翻弄される。やがて、出会った二人は、かつての野山を駆ける純真な少年ではなくなり、寄って立つ場所が180度違っていた…。

 私は、この劇団の芝居を1998年からの主な作品は観ている。その中で、年を重ね、巧く役者としての道を歩んで来た役者もいれば、若く新たな才能も出て来た。一つの劇団の芝居を長い期間にわたって観ることには、こうした楽しみがある。例えて言えば、もうベテラン陣に名を連ねている甲斐政彦のヒトラーは、実によくヒトラーの動きや姿を研究し、写している。今の若い観客には、こうしなければヒトラーが持っていたカリスマ性を伝えることはできないだろう。また、神戸でパン屋を営むカミルの父を演じている藤原啓児は、昨年亡くなった劇団代表の河内喜一朗の後を承けて代表を務めているだけあって、自分の芝居のしどころをキチンと心得ており、観客に印象を残す。

 この作品の狂言回しとも説明役とも言うべき新聞記者・峠草平を曽世海司が演じている。この役がいることで、難解なドラマの理解度が進む。いつまでも変わらぬ身体のキレを見せるのには感心した。

 こうした先輩がいる一方で、今回、アドルフ・カウフマンを演じている山本芳樹の繊細な芝居も評価できる。彼は、その腕を買われて外部への出演も多いが、やはり自分の本拠地での芝居は安心感があるのだろうか、幕開き辺りは非常にのびやかだ。それが、ナチス・ドイツの思想に染められてゆく少年から青年への心の動きを、丁寧に描写している。

 この芝居は、受け取り方によっては多くの解釈ができるし、難しい芝居でもある。世代によっては、物語の舞台になっている戦時中の言葉が、すでに「死語」と化しているからだ。「ゲシュタポ」や「特高警察」、「ゲットー」などの単語を、即座に理解することができない観客層が増えているのは事実だ。しかし、それを言い換えたのでは、意味をなさない。多少難解な言葉があろうと、それが芝居の理解の妨げになるものではない限り、今までの経験で言えば、何とかなるものだ。それよりも、むしろ時代に迎合して言葉を言い換えることの方に、私は恐怖を感じる。

 受け取り方は観客それぞれに委ねられるのは当然のことだ。私は、手塚治虫の原作の漫画を読んでいないが、舞台を観た限りでは、三人の「アドルフ」は、すべて「アドルフ・ヒトラー」という一人の人物に収束するような感覚を覚えた。舞台の上には、象徴としてのアドルフ・ヒトラーがいる。一人の少年はヒトラーが根絶やしにしようとしたユダヤ人である。しかし、ヒトラーには1/4、ユダヤ人の血が混じっていた、という説は今も根強い。いわゆる、近親憎悪だろうか。もう一人は、反発を憶えながらも、思想的にはヒトラーの分身のようになってゆく。アドルフ・ヒトラーは言うまでもなく、残りの二人のアドルフもまた、ヒトラーの人間としての一側面を捉えたものではなかったのだろうか。私には、そう思えてならない。

 終演後、新宿の街へ出ると、先日衆議院を通過した安保法案に対する抗議集会にぶつかった。『第二次世界大戦』は終わっても、それを取り巻く、あるいは関連した人々の中での戦争はまだ続いているのかもしれない。たまには、芝居の後にそんなことを考えるのも良いものだ。