昭和を代表する「弁慶役者」というだけではなく、父・七世、当代の九代目と親子三代にわたって『勧進帳』の弁慶を当たり役にした骨太な芝居の役者だった。「弁慶役者」の他にも、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助、晩年に演じた『元禄忠臣蔵』の大石内蔵助も同様の感覚を観客に与えた、「忠臣蔵役者」でもあった。

 私が初めて幸四郎の舞台を観たのは、手元のメモによれば昭和52年9月の歌舞伎座、『俊寛』となっている。もう40年近く昔のことになる。『俊寛』は歌舞伎の中でも非常にわかりやすいストーリーで、海外での上演頻度も高く、単純なストーリーながら人間ドラマがキチンと描かれている。近松門左衛門の長大な原作の中で上演されるのは現在の「鬼界ケ島」の場面だけになってしまったが、幸四郎の俊寛は老いやつれた老人ではなく、島流しの憂き目に遭い、苦しい日々を追っている生活に疲れた人間だった。この解釈が正しいものだと知ったのはずいぶん後のことになる。しかし、この舞台で幸四郎が見せた立派な芝居に魅了され、中学生だった私は学校の帰りに何度も幕見席へ通っては『俊寛』だけを観たのを覚えている。

 最期の舞台になったのは、自らが初代白鸚を名乗り、子息の六代目市川染五郎が九代目松本幸四郎に、孫の金太郎が七代目市川染五郎に、という親子三代の襲名披露だった。それも体調が芳しくない中での10月、11月と二か月にわたる公演で、後半は休演となり、年が明けると間もなく鬼籍に入った。まさに、命を懸けての襲名披露だったのだ。

 この舞台で、幸四郎は六世・中村歌右衛門と当たり役の『井伊大老』を演じた。途中、ひな祭りの夜に白酒を酌み交わしながら、お静の方と二人でしみじみと夫婦の会話を交わす場面がある。ここでの幸四郎と歌右衛門は、井伊大老とお静の方であると同時に、昭和の歌舞伎を長年にわたって牽引して来た盟友同士が、静かに来し方を語り合っているようにも見えた、素敵な場面だった。どちらかと言えば剛直な役柄の出来栄えで評価されることの多い幸四郎の、飾らない柔らかみと豊かな人間性が感じられた舞台が最期の芝居になったのは、何かの象徴のような気がしてならない。

 八世・松本幸四郎の生涯を語る時、評価は分かれるだろうが、「東宝」への移籍という問題を通り過ぎなくてはならない。どこの役者がどの舞台へ出ようが関係のない現代にすれば信じられないことだが、松竹との専属契約を結んでいる歌舞伎役者が、染五郎(現・九代目幸四郎)、万之助(現・二代目中村吉右衛門)の二人の子息の他に一門を率いて東宝に移籍したのは、世間を騒がせるに値する大きなニュースだった。この問題について本人と直接話をしたわけではなく、推測や憶測ばかりで物を語ることはしたくない。しかし、大きな理由は松竹での歌舞伎に閉塞性を感じていたところへ、東宝から「自由に歌舞伎を演じていい」という条件を提示されたことが大きな理由になったことは否定できない。ところが、歌舞伎公演のノウハウを持たない東宝では、「自由な歌舞伎」の上演が幸四郎の想い通りにはゆかず、間もなく松竹へ戻ることになる。

 問題は、今から50年以上も前に、すでに松竹の歌舞伎の体制に『閉塞感』を感じていた幸四郎の感覚だ。ここに、幸四郎の家が持つ「近代感」がある。「歌舞伎役者なのだから、松竹で歌舞伎を演じていれば良い」という考えは否定しない。その一方で、他所の水を呑むことで、歌舞伎のためになる「何か」を得られるのではないか、という渇望も否定はできない。この時点の幸四郎は、「武者修行」が必要な若さではなく、立派な幹部だった。だからこそ大きな問題になったのだが、この幸四郎の近代性は、現代人として当たり前の行動なのだ。

 その事実を歪曲されて報道されたことで、幸四郎は不愉快なこともあっただろう。しかし、舞台の上で自らの答えを見せ、「三代襲名」という大きな事績を遺した。このこと一つを見ても、武骨な古武士のような生き方が浮かび上がって来る。最近、こうした風格や芸容を持つ役者に出会っていないのが寂しい。