10代で映画スターとして名を馳せ、80過ぎに体調を崩すまで第一線での活躍を続けた山田五十鈴は、体調を崩してからの療養期間が長かったためか、ずいぶん前の人のような印象を受ける方もいるかもしれない。最後になった舞台は、平成13年にサントリーホールで行われた『櫻の園』の朗読で、市村正親や高嶋政伸など、贅沢なメンバーに囲まれて、ロシアの貴婦人の役を読んだ。その後、11年以上にわたって姿を見せぬまま、不帰の人となったからだ。

 あるいは、テレビで藤田まことが当たり役で演じていた『必殺仕事人』や『新・必殺仕事人』の三味線の師匠の姿が目に残っている方もいるだろう。再放送を繰り返された人気シリーズだったことと、後に、パチンコ台の中でこのドラマを扱った台が人気を博した時期があり、数年前まではどこのホールにもあったからだ。

 よく言われることだが、山田五十鈴は女優でありながら歌舞伎の女形のような味わいの芸を持つ女優だった。新派の市川翠扇もそうだったが、明治期に活躍した「女役者」の姿とは、こういうものではなかったろうか、という匂いを感じさせた数少ない女優だった。それは、恰幅の良い、大ぶりな芝居の芸風も加わっていたのかもしれない。小さな劇場では舞台からはみ出てしまうような「芸格」とも言うべきものを持った女優で、芸術座(現在のシアタークリエ)への出演も多かったが、帝国劇場がの大きな舞台が最も似合う女優だった、のではないだろうか。事実、芸術座では『女たち』という芝居で明治期の女役者の筆頭とも言える市川粂八を演じた。

自らの当たり役をファン投票で選んだ『五十鈴十種』には、歴史劇から芸道物まで幅広いジャンルの作品が選ばれているが、頂点とも言えるものは、女芸人・立花家橘之助の生涯を描いた『たぬき』だろう。16歳で清元の名取という邦楽の腕を持っていたからこそ出来た役であり、題名の「たぬき」は、長唄・義太夫・俗曲・曲弾きなどの難しいテクニックが詰め込まれた13分に及ぶ曲だ。これを舞台で弾いている時の嬉しそうな顔が忘れられない。劇作家の榎本滋民が山田五十鈴のために書き下ろした作品で、好評を受けて続編が上演されたが、『たぬき』だけは他のどの女優も受け継ぐことができない作品だ。

また、帝国劇場で同じく榎本滋民が山田五十鈴のために書いた日本美女絵巻の『愛染め高尾』の豪華絢爛な美しさも忘れ難い。落語の『紺屋高尾』を舞台化したものだが、落語でイメージする吉原の松の位の花魁・高尾太夫を遥かに凌駕するような美しさと愛嬌を見せた。今は、こうした大掛かりな座長芝居はどんどん少なくなった。また「座長」が意味する言葉のニュアンスも、30年前とは微妙に異なっているのだろう。

昭和64年1月7日、昭和天皇崩御の日。山田五十鈴は、自らが座長を勤め、宝塚劇場で井上靖原作の『淀どの日記』を演じていた。私は偶然その日のチケットを買っていたが、果たして公演があるのかどうか、半信半疑で昼の部を観に出かけた。夜の部がどうなったかは知らないが、昼の部はキチンと幕を開け、スケールの大きな淀の方を見せたのも印象に残っている。

 山田五十鈴の風格や芸容の大きさももちろんだが、私はあの「声」も魅力だったと思う。決して美声と言えるものではなく、悪声とまでは言わないが低く、重みのある声だ。「錆びた」とでも言えばいいだろうか。これは決して悪い意味ではなく、「錆び鮎」のように、ある種の到達点の一つとも言える。自分の声の性質を熟知した上で、それを魅力に変えて見せるのも役者の腕だ。

 山田五十鈴の功績で特筆しておかなくてはならないのは、後進の育成に力を注いだことだ。歌舞伎の中村又五郎(先代)とともに、ジャンルを問わず役者の邦楽の稽古に熱心に取り組んだ。後に、「東宝ゆかた会」として、日ごろの稽古の成果を一般に発表する催しが東京宝塚劇場で開催されたが、観客にとっては名のある役者たちが素顔で懸命に三味線や琴を披露する一日限りの会は贅沢な催しでもあった。これをただ懐かしんでいても仕方がないが、山田五十鈴がやって見せた後進の育成を、今の演劇界ではどのような形で行えるのか、その問い掛けは生きているだろう。