第八夜【戯曲を読むということ】(2020.07.20)

中村 我々には当たり前でも、一般的に「戯曲を読む」機会は少ないよね。今日は「戯曲を読む」ことを話そう。

佐藤 読書に対する感覚の違い、ですね。そうか、そういうことだ。つまり、読書に対する感覚も変わった、ということですよね。

中村 そうだね。「活字離れ」が叫ばれて久しいけれど、文学者の中西進(なかにし・すすむ。1929~)さんはエッセイの中で「読書離れは人間の劣化だ」と。「読む」は、文字だけではなく、「相手の心を読む」、「行間を読む」、あるいは文字を変えて「詠む」。そういう脳の行為を放棄していることに他ならないと。これは大いに同感できるんだ。その「読書」の中で、最も難しいのが「詩」と「戯曲」ではないか、と個人的に感じている。

佐藤 この自粛期間中に家で戯曲を読む機会が増えて、そうしたら「小説」を読むのが今までよりも遥かに楽になりました。戯曲の方が、読者に求める「想像」とか「イメージ」をより多く求められるんでしょうね。

 今は、戯曲の読者は舞台に関わる人や演劇ファンがほとんどなんでしょうけれど、読んでみれば面白いんですよね。頭の中に会話の光景や場所が浮かんでくる時もあったりするし。

中村 それも、戯曲を読む楽しみだね。戯曲の読者が減ったのは、「演劇」と「庶民」との距離感を象徴しているのかもしれない。昭和30年代辺りまでは、一般の家の女の子でも、今は死語になった「花嫁修行」のために、邦楽や生け花、踊りなどの日本の文化に接する機会も多かった。しかし、今はそれがピアノやバレエなどの音楽や他のスポーツなどに代わり、「演劇」と「庶民」との距離感が広がった。それが、「戯曲が少ない」という部分で出版の分野にも現われているんだろうね。

 同時に「演劇界」も性質が変わって、劇作家を目指す人々も減ったんだろうね。これは「経済的な問題」も大きくて、かつては有名な劇作家がたくさんいたけれど、今はとても劇作で食べて行くことはできない時代になってしまったからね。

佐藤 そうなると、新作を上演したくても、簡単にお願いはできないですよね。劇作家には仕事が来ない、という悪循環じゃないですか。でも、歌舞伎ではどんどん新作が上演されてますよ。

中村 そうだね。ただ、「歌舞伎」を専門で上演している松竹の関係者や文芸部の人という限られた範囲でのことが多く、誰でもというわけではないね。江戸時代は、歌舞伎の作者だけを仕事にしていた河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ)や鶴屋南北(つるや・なんぼく)のような人だけだったからね。歌舞伎の世界の外の人が、作家として歌舞伎に作品を提供したのは明治に入ってからのことだよ。

佐藤 今だと誰ですかね?

中村 考えてごらんよ。

佐藤 うーん。野田秀樹(のだ・ひでき、1955~)、宮藤官九郎(くどう・かんくろう、1970~)…あとは三谷幸喜(1961~)とか? 

中村 みんな売れっ子だね。この傾向は割に古くからあって、谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886~1965)や三島由紀夫(みしま・ゆきお、1925~1970)などの作品は今でも上演されるからね。

佐藤 そうですね。でも、現代の売れっ子の劇作家がそうやって歌舞伎の新作を書けば、歌舞伎の在り方も変わってくることになりますよね? いや、もう現に変わっているんですね。これから歌舞伎の新作はどうなるんでしょうね?

中村 歌舞伎の在り方は、明治維新以降、常に問われてきたんじゃないのかな。

佐藤 ここでもまた「明治維新」が出て来るんですね。

中村 そうだね。君が好きな岸田國士(きしだ・くにお、1890~1954)も明治以降の作家だし。明治以降、海外から入ってきた「リアリズム」の考えがあるから、そこを避けるわけには行かないね。

佐藤 演劇の流れを考えると、いろいろなところで「明治維新」にぶつかるような気がします。

中村 でも、これがなければ、優れた海外の演劇作品は入ってこなかったし、その影響を受けた優れた劇作家も出なかったかもしれないよ。明治の人々の素養は物凄い。中国や日本の古典漢籍を一通り通った上で、海外の戯曲の翻訳だってできる。それだけの該博な知識の上に立って物を書いているんだから。

佐藤 凄いですね。

中村 劇作家が減っているもう一つの理由は、劇作家が俳優同様に「消耗品」のように使われるケースが増えて、「再演」、「三演」という練り上げ方ができなくなっているのも大きな理由じゃないかな。また、かつては「作品ありき」だったものが、今は「俳優ありき」で、このメンバーの一座だから、こういう脚本をという仕組みになってしまった。どちらが偉い、という議論には意味がないんだけれど、以前に比べて劇作家が尊重されなくなった事実は否定できないね。

 ただ、「台詞が言いにくい」とか「東京弁は喋りにくい」という理由で台詞を簡単に変えてしまうことを、誰も否定しない時代になってしまった。一本の脚本を仕上げるための膨大な知識と労力に対して、正当な敬意が払われなくなってしまったんだね。

 また、この時代に「この戯曲にはこういうテーマが」とか「文学性」がと言った時に、観客がどう反応するか、だね。

佐藤 それが今の流れなんですね。「お金払ってまで、そんな難しい芝居を観たくない」とか。そもそも「文学性」って何なんだ、とか。でも、悔しいけれど、僕には答えが出ないです。

中村 「文学性」については、そんなに簡単に答えが出る問題じゃないから、また別の機会にしよう。

佐藤 そうですね。そもそも「純文学」と「大衆文学」の違いもはっきりしないし、はっきりさせる必要があるのかどうか。それもわからないです。

中村 このテーマはまだまだ掘り下げないとね。

 それよりも、早川書房が、「ハヤカワ演劇文庫」というシリーズで、古今東西を問わずに優れた戯曲を文庫で出版していて、間もなく50冊になろうとしている。新しい感覚で、手軽に戯曲を読もう、というチャンスではあるんだよ。君たちのような若い俳優が、そういう機会にどんどん戯曲を読んでほしいし、古本でも安く手に入るから、活用しないとね。

佐藤 はい! そう言えば、戯曲を読んでいて思ったんですが、海外の作品よりも日本の古い戯曲の方が難しくい、というのが結構あります。大正とか昭和の初期は仮名づかいも違うし。

中村 君の世代にはそうかもしれないね。でも、それも役者の勉強だと思わないと。

佐藤 何だか、毎回宿題を出されているような気がするんですけど…。

中村 気のせいだって(笑)。では、また次回。

                   (了)