私は「演劇評論家」と名乗っている。資格や試験があるわけではなく、自ら名乗るのは勝手だ。その批評を、第三者が認めてくれて初めて成立する仕事だ。年齢的な問題で言えば、私より下の世代、つまり40代の人々は同じ仕事でも「演劇ジャーナリスト」「演劇ライター」などと名乗るケースが多い。

 「評論家」というと何だか偉そうな響きで、自称するのはあまり好まない。ただ、私が学生の頃は、同じ職分でも先に挙げたような言葉がまだ一般的ではなく、やむをえずという部分もあり、そのまま年月が過ぎた。同様に「批評家」と名乗ることもあるが、今は多くのジャンルにおいて「批評」なるものが停滞し、あるいは意味をなさないことも多いので、ここでは「演劇」の分野に限ることにする。

 「演劇評論家」と聞くと、芝居を観ては「あそこが面白くない」だの「あの役者の芝居がまずい」だのと難癖ばかりつけているようなイメージがある。しかし、それだけでは成り立たないのは事実だ。「お世辞を言う」という意味ではない。
それ以外に、私は、批評家は「良きデータベース」を有していなくてはならない、と思っている。役者は、自分が舞台に出ている間は他の芝居は観られない。以前、この舞台を他の役者が演じた時にどうであったのか、それを比較した上でどう見えたのか、を役者に伝える。これは、演劇界内部での仕事だ。一般の観客に向けては、この舞台がどうだったのかを、あるいはミクロな眼で、時にはマクロな眼で観た上での総合的な評価をした上で、客観的な情報を伝える必要がある。

 良きデータベースであるためには、以前の同じ舞台との比較はもちろん、演じている役者が他の舞台のどんな役でどういう個性を見せていたかを記憶しておかなくてはならない。そうした意味でも、多くのデータを頭の中にキチンと整理しておくのが必要なのだ。とは言え、これはあくまでも私の「理想」であり、年間200本近い芝居を観る生活を30年以上も続けていれば、当然忘れているものもあるし、勘違いしたまま記憶の棚にしまわれているものもある。そうしたことどもを、暇な時間に整理しておくことも必要なのだ。

 スポーツを例に挙げれば、野球でもサッカーでも、批評をしたり評論をするのは元・プレイヤーであり、何らかの理由で現役を引退した「経験者」だ。しかし、演劇の批評家は、演技の経験はない。これが成立しているのは、音楽、美術、映画といった芸能・芸術の分野ではなかろうか。そういう点で言えば、骨董の目利きと似ている。骨董の目利きをする場合、作品を制作する技術が必要なのではなく、それが客観的に見て良い品か悪い品かを判断し、必要があれば具体的な金額を提示することだ。

 芝居の批評では、「この舞台の価値がいくら」という視点で批評をすることはない。しかし、目利きが必要であることは、骨董と同様である。芝居には贋作がないだけまだましと言えるが、質の良し悪しは厳然と存在する。それを、堂々と良い物は良い、悪い物は悪い、とはっきり言える矜持と謙虚さを持っていなくてはならない。

 人間は弱いものだ。情も働けば、客観的と言いながらも主観が混じることは否定できない。それだけにより一層襟を正して、一つ一つの芝居の批評に当たることが本分なのだ。非常にシンプルなことながら、それだけに難しい。誰にでも自信を持って進められる芝居ばかりに出会えれば、こんな幸福はないが、それを日々探しているのだ。