令和三年の壽初春大歌舞伎は、「コロナ禍」を受けて三部構成での幕開けとなった。しかし、折しもこの日に昨年春に次いで二度目の「緊急事態宣言」が発出され、今後の演劇公演の先行きが不透明な中での上演となった。

 三部構成にしたことにより、先月までの「四部構成」よりも演目数、上演時間数が増え、基本的には各部で二本の演目が上演され、時間も一時間だったものが幕間を挟んで二時間強になった。第三部は『車引』と『らくだ』の二本。ようやく、これから徐々に公演が以前のような形態に戻るかと思われた矢先の「緊急実態宣言」である。今回の宣言の主な内容は、20時までに飲食や酒類の提供を終わらせ、閉店を要請するもので、昨年よりも遥かに厳しい感覚を受ける。演劇公演の場合は、飲食や飲酒が目的ではないものの、終演時間が20時を過ぎる公演については、感染の拡大が止まらない現状を踏まえて、今後の公演形態をどうするか、という大きな問題が勃発したその日の観劇となった。

 そうした悲壮感とも言うべき感覚の中、高麗屋三代による『車引』。松本白鸚の松王丸、松本幸四郎の梅王丸、市川染五郎の桜丸と、三代揃って適役で上演できるのは何ともおめでたいことだ。大作『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の一場面で、それぞれの役柄や立場、物語ののちの場面につながる布石など、短いながらも見どころもあり、「荒事」の力強さもある。芳しいとは言えなくなってしまった年の幕開けに、歌舞伎の「呪術性」をも感じさせ、今年の希望への一幕の意味合いも加わった。

 幸四郎の梅王丸が力演で、身体の隅々まで神経が行き届き、豪快で勇壮だ。もう何年も前から「幸四郎」を名乗っていたかのような安定感である。三つ子の兄弟の末っ子である桜丸は、元来は女形が演じる柔らかみを持った役で、女形ではないが、染五郎の初々しさが好ましい。まだまだ勉強の段階ではあるものの、父、祖父との共演は、舞台での修行と共に、大きな想い出ともなろう。白鸚の松王丸はさすがの貫禄で、朗々とした台詞での出は見事なものだ。芸の継承という大きな問題と同様に、三人三様の役柄、個性の違いを楽しめる一幕である。

 15分の幕間を挟み、落語種の『らくだ』。長屋中の嫌われ者で「らくだ」とあだ名のある男がフグに当たって死に、その兄貴分と実直な屑屋が繰り広げる肩の凝らない一幕だ。わかりやすくユーモラスな内容のために上演頻度は多いが、さすがにこのところ回数が多すぎるような気がする。上演時間や人数の制限はあるにしても、いささか食傷気味ではあるのは否めない。

中村芝翫の兄貴分、片岡愛之助の人の好い屑屋コンビは決して悪くはないが、愛之助一人が上方言葉というのが、江戸物の芝居には違和感を覚える。上方出身で、江戸で商いをしているという想定で役を作ったと考えればよいのだろうが、ここは江戸の世話物の感覚が横溢していないと、一人だけが浮いたような感覚になってしまう。坂東彌十郎の家主のおかみが、因業な市川左團次の亭主といい釣り合いで面白い。彌十郎は『車引』では藤原時平を演じており、二本に出演と奮闘である。

 上方狂言、江戸狂言との境目も時代と共に柔軟になり、いろいろな顔ぶれで双方の作品が観られるのは良いことだが、一本の芝居の中に不自然な形で「共存」するのはいかがなものだろうか。ここを曖昧にしてしまうと、「何でもあり」になってしまい、本来の姿がぼやける恐れがある。

 一年前に「コロナ禍」が始まって以来、歌舞伎の受難は続いており、他の分野の演劇に比べてもダメージは大きい。その中で、できうる限りの工夫をし、心新たにお正月公演の幕が開いて間もなくの「緊急事態宣言」は大きな痛手だ。その中で、今後の歌舞伎がどういう方式で公演を続け、伝統芸能としての役割を守りながら次の世代につなげてゆくのか。他のジャンルの演劇やライブ公演同様、まさに「正念場」である。その姿をキチンと見届け、伝えてゆくのもまた、批評家を名乗る者としての仕事である。