今の我々は、必ず訪れる「死」を必死で見ないように、あるいは触れないようにと、全力を以て遠ざけている。いつの間にか人生は100年の時代になり、「健康のためなら死ねる」というジョークがその意味をなさなくなってしまった。健康で長生きをしなければ損をしたかのような風潮で、きちんと死に対面もしようとしなければ、日常的に死を想うこともない。哲学者「メメント・モリ」(死を想え)という深遠な言葉など糞くらえ、と言わんばかりだ。

 加藤健一事務所の『煙が目にしみる』。2000年の初演が大評判で、2002年、2005年と回を重ねた後、13年を経て4回目の上演となった。鈴置洋孝の原案を堤泰之が脚本にし、演出も担った作品で、舞台は1997年、どこかの田舎町の火葬場にある待合室だ。今回の上演に際して、時代背景を変更しようという案もあったようだが、あえてこのままで上演するという判断が成功した。今や弾圧の対象になっているとも言える「煙草」が小道具としても大きな役割を果たしているからだ。些末な問題だ、と感じる向きもあるだろうが、映画や舞台での喫煙シーンは、時に非常に重要な間合いや効果を発揮する。今は、健康に害を与えない小道具としての「煙草」もあり、この辺りはお目こぼしを願いたいところでもある。
 四演目に当たって加藤健一以外のキャストを一新したことも新鮮な効果を発揮し、良質の舞台になった。

 幕が開くと、火葬場の待合室に死に装束を来た二人の男、野々村浩介(天宮良)と北見栄治(新井康弘)が座っている。これから荼毘に付される二人だ。外に立つ桜の大木を眺めながら生前の想い出を語り、焼かれる前の最後の一服を楽しんでいるところから始まる。これだけでもただの芝居とは思えないが、ここへ、高校の野球の監督を務めていた野々村の家族と、妻を亡くし、若い愛人のところで急死した北見の娘がやって来る。待合室に集まった二人の故人(?)と、その家族や関係者。その中でたった一人、ボケかかった野々村の母・桂(加藤健一)だけには二人の姿が見え、普通に会話ができる。最初は誰にも信じてはもらえなかったが、桂の口を通して、二人の男が抱えていた事情や想いが浮かび上がって来る…。

 初演から欠かさずにこの舞台を観て来たが、加藤健一が演じる「お婆さん」が絶妙のボケっぷりを発揮し、自在の芝居だ。雰囲気としては初演の頃より遥かに年老いて見える計算のわけだが、もはや性別も年齢も超越した存在になりかかっているところが面白く、余計に笑いを誘う。粗筋だけを書くと深刻な芝居のようだが、これは素敵なコメディである上に、幕が降りる頃には一筋の涙が頬を伝うヒューマン・ドラマでもある。天宮の野球の監督というカチンコチンの芝居も、新井の訳アリ風に始まる役も、共にぴたりとはまっており、今までのメンバーとは違った味わいで面白い。野々村の妻・礼子を演じる文学座の山本郁子が、前半抑えていた感情が幕切れ近くに一気に噴き出す場面は、一転して涙を誘う。自分の劇団の財産演目『女の一生』を今後引き継ぐだけの腕を見せた。

 北見の知人でレンタルビデオ店の店長・牧の佐伯太輔の軽さ、野々村の従姉妹で美容師の原田の伊東由美子の半ば傍若無人とも言える芝居など、それぞれの役の個性が引き立ち、密度が濃い。火葬場での出来事だけに、登場人物に根っからの悪人がいないのも救いだが、その代わりにそれぞれが「人生の最期に立ち会う」場面で少しずつ緩んでいたり、隠したり抑制していた本来の性格が顔を覗かせる。だからこそドラマが面白くなるのだが、面白く笑っているばかりではない。それぞれの人物が見せる本心が響くのだ。誰もが「死」を迎えるからこそ、何でもないような、また時には何かがある日常の日々がたまらなく愛おしく、大切なのだ。それを教えてくれるような「台詞が心にしみる」舞台である。