1998年に、故・蜷川幸雄の演出でシェイクスピアの戯曲全37作品を上演しようと始まったこの企画、2016年に芸術監督でもあった蜷川の死去の後、演出が吉田鋼太郎に変わり、今回が35作目となる『ヘンリー八世』だ。1900年代までは比較的上演されていたようだが、現在のシェイクスピア劇の中では人気の高い作品とは言えない。だからこそ、全作品の上演計画の中でも最後の方まで残されていたのだろう。

 今回は、阿部寛をタイトルロールのヘンリー八世に迎え、狡猾な枢機卿・ウルジーに演出も兼ねる吉田鋼太郎、王の信頼が篤い若き聖職者・クランマーに金子大地、王妃キャサリンに宮本裕子、キャサリンの女官で王が惚れるアン・ブリンに山谷花純などのメンバーでの上演だ。歴史上のヘンリー八世(1491~1547)は、フランスとイギリスの「百年戦争」、そして内乱の「薔薇戦争」の後の時を生きた人で、男子の跡継ぎを狂おしく求めるあまり、6度も結婚をし、3度目の結婚で男子を設けている。そのため、「英国一好色だった王」などの有り難くない異名もあるが、シェイクスピアの作品は、その生涯をただ忠実にたどっただけでの「歴史劇」ではなく、その中にうごめく「人間の思惑」を描いている。実際に起きた事件の順番を入れ替えたり、年月を短縮しているのも、より効果的な描き方のためだろう。日本の「歌舞伎」が、実名を若干変えながらも誰にでもそれと分かるような描き方で事件を描き、時系列を変えたのと同様の発想、と言えるかもしれない。

阿部が演じるヘンリー八世は、響きの良い低音の台詞を基調としながら、政敵・ウルジー卿の悪事や狡猾なやり方に、時として「人間」としての感情が爆発する姿を演じて見せる。6年ぶりの舞台となるが、堂々たる体躯を活かし、凛然とした王を演じている。狡賢く、その場しのぎの巧い吉田が演じるウルジーとのやり取りや対決も、時に相手のすべてを見透かしているようでもあり、感情に任せて動く暗愚な王になっていない。映像の活躍が多い阿部中で、頻繁にではないものの舞台で大きな役を演じてきたことによる役者としての年功がいい味わいになって来た。

 対する吉田のウルジー。今までの数多くのシェイクスピア作品に出演し、今回は演出も兼ねているだけに、今までの経験が活きた柔らかで軽い芝居で、阿部との好対照を見せる。ただ、脚本のカットや変更がかなり大胆に行われているようだ。完全に原作に従っての上演となれば、現在の休憩1回を入れて3時間20分では納まりは付かないのは明白で、脚本のカットを全面否定するものではない。ただ、今回の場合は、「上演台本」の責任がどこにあるのかを明記するべきだっただろう。一例を挙げれば、冒頭の「これからお目にかける内容は真実です」という旨の口上がカットされ、ヘンリー八世が男子の世継ぎを求めるためのベッドシーンに変わっている。こうなると、作品の冒頭が持つ意味が全く変わったものになる。変更するならするで、その意味と責任がどこにあるのかをはっきりするべきだろう。特に、『ハムレット』や『マクベス』のように、観客にある程度の知識がある作品ではない。滅多にない上演ゆえの工夫だろうが、それだけに、もう少し慎重さがほしかった。

 この全作品上演シリーズも、後2作品である。蜷川幸雄が始めた大きなプロジェクトも、数年以内に終わりを告げることになる。日本の翻訳劇を中心に、大きな影響を与えた蜷川幸雄が、どのような眼で最後の作品を眺めているのだろうか。