作品の批評に入る前に、書いておきたいことがある。公演拠点の一つとしてこの劇場を使う機会が多いシス・カンパニーでは、「シアタートラム」での上演の場合、作品の上演時間は「90分以内」と決めているそうだ。上演時間は、現在の演劇界にとって重要な問題でありながら、検討される機会も話題になる機会もない。批評家を標榜し、各地の劇場を歩いている中で、明らかに「長い」と思う芝居が増えた。時に、休憩を入れて3時間半から4時間というのは、肉体的にも負担が大きい。ジャンルにより基準になる時間の計り方も違う。大劇場公演は、基本的に2回の休憩を挟んで4時間前後というのが一つの目安になっているようだ。中には、幕間の食事時間の都合で、一幕目は一時間前後でというケースもある。一方、小劇場では、幕間なしで一気に上演をすることも多いが、その場合、2時間を超えることも少なくない。私個人の感覚で言えば、舞台に集中できるのは80分から90分だ。時間を忘れさせてくれるほど面白い舞台なら話は別だが、一幕で100分を超え、僅かな休憩時間で女性の化粧室の列が途切れないうちに次の幕の開演ブザーが鳴る、という光景はあちこちで見ている。

 私が言いたいのは、お金を払う観客が観たいものと、創る側が見せたいものとの間に、距離があるということだ。距離感は観客それぞれに違うだろうが、両者の感覚が一致するように工夫するのもまた、芝居の制作の大きな仕事だろう。もちろん、最初から「作品ありき」で上演時間が決まっているものは除外してのことだ。観客の生理は重要な要素だが、『ハムレット』を90分で上演しろという話ではない。

 「上演時間が短い」=「入場料金から計算した時間単価が高い」という計算もあるだろう。しかし価格に見合う内容であれば、時間単価が多少上がろうが、問題はなかろう。この『お蘭、登場』にしても、上演時間は75分、チケット代は8,000円だ。単純に乱暴な計算をすれば、10分1,000円、1時間6,000円だ。確かに、2時間の芝居なら半額の計算になるが、芝居を観る場合に、時間単価はさして重要ではないだろう。問題は「中身」なのだから。日本の演劇の開演時間の問題が昼も夜も「早すぎる」と話題になるのは、上演時間の問題も大きく関係している。90分で終わる芝居であれば、夜の7時30分に開演しても9時に終演、場所によっては軽く食事をしてから劇場へ行くこともできるし、芝居を観るためにわざわざ半日の休暇を取らずにもすむ。
 単純に「長い芝居は嫌いだ」ということではない。今の観客の感覚に合わせて、上演時間を考えることが重要だと言いたいのだ。この部分が柔軟になれば、日本の演劇界が抱えている問題の幾つかは解決し、観客の増加につながるきっかけを持てるはずだ。

 前置きがずいぶん長くなってしまった。今回の『お蘭、登場』は、シス・カンパニーが上演している「日本文学シリーズ」の第五弾で、江戸川乱歩をモチーフにした北村想の作品を寺十吾(じつなし・さとる)が演出したものだ。登場人物は3人。小泉今日子の謎の女・お蘭、それを追いながらも翻弄される名探偵・空地小五郎が堤真一、目黒警部が高橋克実。言うまでもなく空地小五郎は名探偵「明智小五郎」、目黒警部は「メグレ警部」のもじりだ。この人物設定ですでに、そう真面目な芝居ではないことがわかる。粗筋にしても、「お蘭」という謎の女が繰り返す犯罪めいた行動に振り回される二人の男、との三人のコメディで、暑い夏を笑い飛ばすには理屈はいらない芝居だ。とは言え、脚本や演出がいい加減なわけではなく、それぞれのシーンに意味付けを持たせている。その一方で、堤、高橋の二人にアドリブで完全に委ねてしまう部分もある。二人が程よく観客を笑わせ、次の場面へとテンポ良く物語が進み、笑っているうちに舞台は終わる。推理劇や、謎解きなら問題があるが、この作品はあくまでも「江戸川乱歩」の形式を借りた「コメディ」であり、理屈抜きに笑えればそれで作品の意図するところは果たせた、と考えてよいだろう。そういう意味で言えば、何度も顔を合わせ、呼吸が合う三人が、時に素顔を見せながら演じるコメディとしては面白い仕上がりになっている。軽快な作品の上に、役者の魅力が乗せられた芝居だとでも言おうか。

 こういう芝居で誰の演技がどうの、という批評は野暮だろう。むしろ、猛暑を忘れ、劇場でひととき「非日常の時間」に浸る、という演劇本来の役割からすれば、素敵な納涼芝居である。