日本と韓国の関係は相変わらずいろいろな問題が横たわり、決して良好な関係とは言えない。その一方で、第四次とも言われる「韓流ドラマ」のブームをはじめ、K-POPなどのエンタテインメント分野での交流は、若い世代を中心に盛んである。政治的な問題に関して、日韓双方の批判合戦は分からないではないものの、双方がお互いの事を知らないままに批判を繰り返しているような気がしてならない。

 例えば、1895(明治28)年に、当時の日本軍部を中心とした人物たちにより朝鮮王朝の王妃・閔妃(びんぴ)が宮殿で暗殺された事実を知る日本人がどれほどいるだろうか。現地では「乙未事変(いっぴじへん)」と呼ばれているこの事件は、ソウルの観光名所として今も人気の「景福宮(きょんぼくきゅう)」で起きたものだ。これを今の日本に例えれば、皇居へ韓国の軍人が乱入し、皇族を殺害したに等しい。当時、皇帝に代わり政治の実権を握っていた王妃の殺害により、韓国で第26代続いた王朝は途絶え、1910年に日本は韓国を併合し、朝鮮半島を領有・統治することになる。

 歴史には多くの謎があるのが常で、この事件に関しても正確なところは分かっていない部分も多い。世に出ている情報がすべてとは限らず、真相は闇の中とされてるものも多数あり、歴史は新たな発見によって変わるものでもある。この事件に関して言えば、日清戦争に勝利し、アジアで力を付けた日本が、中国を挟んだ東アジアの覇権を巡るロシアとの争いの中で朝鮮半島への領土拡大を狙い、日本の軍部と当時の朝鮮半島の「反・閔妃派」の共謀によるものだ、というのが定説にはなっている。

 今回、シライケイタがこの事件に真正面から向かい、金澤菜乃英の演出で青年座が上演している。二人とも気鋭の精鋭で、日韓両国間の緊張状態が激しい現在、この問題を演劇の素材として扱う勇気を持った青年座に、まず拍手を贈りたい。政治的感情は抜きにしても、韓国の演劇的な水準は非常に高く、コロナ禍以前から私も個人的にではあるものの、現地の演劇人との交流を続けており、「演劇を通じた両国の関係を、政治的問題で絶やしてはならない」との想いがあり、今回の青年座の挑戦は快挙と考えている。

 歴史的事件をもとにした作品は、作者の考えようによって表現はさまざまだが、この作品は「景福宮」を舞台にした一幕物で、この事件に至るまでのいきさつが実在の人物の台詞で。事実と想像を交えた言葉で丁寧に描いている。語り手として、閔妃の息子で須田祐介が演じる「世子(せじゃ)」(日本では皇太子に当たる)が、物語の背景や登場人物の想いを語りながら進行するのが特徴で、生演奏のチェロが時に物悲しく、あるいは激しく人物やドラマの感情を盛り上げているのが効果的だ。

 密命を帯びて半島に渡った朝鮮国特命全権公使の三浦梧楼(綱島郷太郎)が、現地での指揮官となり、現地の日本公使館の一等書記官・杉村清(山賀教弘)らの協力を得て、現・国王の高宗(若林久弥)に変わって政権を揮う閔妃(万善香織)の暗殺を企てる。まさに、韓国ドラマそのままの展開と感じるとすれば、四方を海に囲まれ、外圧からの権力剥奪の不幸を多くは経験していない日本固有の感覚だろう。同時に、「先の大戦」で日本が犯した愚が、明治時代にも行われていたことを想うと、「歴史は繰り返す」の言葉の重みが痛々しくもある。

 綱島郷太郎の三浦梧楼が、圧倒的な存在感を持って舞台を引っ張っている。学習院院長なども経験した三浦はこの事件の折には48歳で、その後日本へ戻り、政界の黒幕として存在感を発揮し、79歳で生涯を終える。波乱の生涯を送った人物だが、その人生の中で最も大きな事件であったのではないか。これまでに青年座の他の作品でも見せ、高い評価を得てきた「男くさい芝居」が、この作品、役柄にぴたりとはまった感がある。

 万善香織の閔妃、聡明で気が強く「国母」と呼ばれる凛とした女性の姿がある。閔妃との折り合いが悪い先帝・大院君の津嘉山正種、自分の力が及ばず、老残の身を晒す終盤の演技に哀愁が漂い、見事な出来映えを見せる。

 最近、「歴史認識」との言葉を聞く機会が多い。日本がこれまでどのような歩みを経て今に至るのかを認識するのは大いに結構なことだ。しかし、それ以前の「歴史教育」がキチンと行われていないところに問題がある。特に、明治以降の近代史の教育が意図的に疎かにされたままでは、お題目だけの「歴史認識」が進むことはないだろう。演劇に描かれている事柄が全て事実ではないにせよ、そこから歴史に想いをいたすこともできる。江戸時代、芝居と言えば歌舞伎しかない時代に「芝居は無学の耳学問」と言われた。先人のセンスと感覚に敬服すると共に、今の我々の物の考え方にも影響を与える舞台である。