おりから「日韓交流正常化60年」の今年、日本の劇作家・清水邦夫の代表作の一つ、『楽屋-流れ去るものはやがてなつかしき-』が、韓国のユン・ソヒョンの脚色、ユンとシン・ギョンスの共同演出で上演されている。すでに2023年に韓国で上演されており、好評だった組み合わせそのままの来日公演となった。

 1977年の初演以来、プロアマを問わず日本で最も累計上演回数が多い作品とも言われており、私も何パターンの組み合わせでこの芝居を観たことだろうか。しかし、他国語に翻訳された日本の芝居を観る、という経験は少なく、これはこれで興味深いものだ。

 舞台で話される台詞は韓国語、日本語の字幕が表示される一幕物のこの作品、タイトル通り、舞台となるのは劇場の「楽屋」だ。演劇ファンには未知の、あるいは謎めいた、憧れの場所かもしれない。一方で演劇人、特に俳優には生活の場とも成り得る場所で、古い劇場の楽屋には多くのエピソードが付き物だ。

 ロシアの作家、A・チェーホフの『かもめ』が上演されている劇場の楽屋に、プロンプター専門でとうとう芽が出なかったベテラン女優Aと、Aよりは少し若く、まだ希望を持ってはいるものの、一向に売れる気配のないBが、懸命にメイクを行っている。そこへ、出番を終えた女優Cが現われるが、また舞台で台詞をトチッたことに苛立ち、周りの物に当たり散らしている。その様子を眺めて、自分たちの想い出を語るAとB。そこへ、元、Cの付き人で、病気で休んでいたDが登場し、すっかり身体が治ったので、また仕事に戻りたい、と言う。しかし、…。

 全体的な印象を言えば、かなり自由に脚色が施され、韓国の感覚に寄せられている感がある。感情的な感覚で判断する問題ではないが、一例を挙げれば、日本での1960年代から70年代に掛けての政治運動激しき時代の行動が、1945年の韓国の独立運動に置き換えられていたり、女優たちの食事がすべて韓国料理になっている。これらは、作品の本質に大きな影響を及ぼす場面ではなく、両国の歴史や習慣の違いを考えれば許容範囲だろう。

 作中で三好十郎作の『斬られの仙太』が引用されている部分があるが、ここは原作に忠実な演じ方で、他の芝居に置き換えるのも難しいからだが、何ら違和感はない。

 いささか不思議な感情を憶えたのは、日本の『楽屋』に比べ、明るく、コメディタッチにも近い要素を含んだ演出の方だ。清水の原作では、女優AとBは仲が悪く、真綿に針をくるんだような皮肉や嫌味の応酬がある。しかし、今回の舞台では、女優としてはライバルでも、仲の良い姉妹のようなやり取りで見せている。この見せ方を一概に否定はできないが、そうするとこの作品の重要なテーマである「女優の業」というものが、いささか薄まりはしないだろうか。もともと、舞台装置が、長年の怨念が渦巻くような楽屋ではなく、明るく近代的な楽屋になっており、全体のイメージの捉え方、表現の違いだろうか。

 女優Dがダブル・キャストで、ハム・ウンジョン、キム・ジュヨンが演じているが、登場人物は女優AからDの4名だけだ。作者の清水は、各役に固有名詞を与えずに記号化することで、どんな広がりでも待たせることができるようにしている。今回の来日メンバーは、テレビや舞台などで、本国でも評価の高い人々だが、女優Aを演じたソン・オクスクがやはり群を抜いてうまい。第一次の韓流ブームを作った『冬のソナタ』以降、多くのドラマで日本でもよく知られたベテラン女優で、60代半ばに近いはずだが、身体の動きが軽く、実にしなやかだ。先に引用した『斬られの仙太』を演じたのもソンだが、長台詞や動きにも違和感はない。何よりも、台詞の質感が軽重自在だ。

 私が観た日は、女優Dはキム・ジュヨンの回だったが、脆いガラス細工のような部分と、自己主張の激しい思い込みが同居した、面白い芝居を見せた。女優Cはイ・イルファで、『かもめ』の中の娘役・ニーナはそろそろ卒業しなくてはらならないキャリアを持ちながら、自分が思うように芝居が運べない女優の苛立ちを巧く見せた。女優Bのソ・ヨンヒ。ソン演じるAの妹分、といった役どころに設定され、丁々発止のやり取りを見せる作りになってないだけに、受けの芝居が多くなるが、無難に演じている範囲に収まったのは惜しい。

 遥かアメリカやヨーロッパを引き合いに出すまでもなく、隣国である韓国のエンタテインメントの質の高さはよく知られたところだ。映像だけではなく、実際の舞台でも、彼我の差はよくわかる。そうした観点から、今年のこの舞台は非常に有意義な試みであったと言える。

 同時に感じたのは、双方の国で、互いを嫌う人々は根強く存在する。政治的な感覚の是非に踏み入るつもりはないが、互いに「イメージ」だけで、それ以上相手を理解しようとせずに批判し、嫌っている部分があるのではないか。そこを改めて考え直す必要も感じる舞台となった。「歴史認識」の言葉が独り歩きをしている感が強いが、それ以前に、文化や芸術に国境はない。