実は、私は書評を書くのが好きではない。20年近く前に、ある本の書評に一夏を潰した苦い経験があるからだ。もう一つは、私自身が物を書く人間であり、同じ立場に立って他の作家が書いたものを批評するのにいささかのためらいがあるからだ。

しかし、その二つの逡巡を振り切ってなお、「今、書いておくべき」本について書くことにする。「落語評論はなぜ役に立たないのか」。本書を読んで、私は喉元へ匕首を突き付けられたような想いがした。すべてが当てはまるわけではないが、「落語」の文字を「演劇」に置き換えることがいともたやすく、不自然ではないからだ。本書は「落語とは何か」「落語評論家とは何者か」に、特別付録として著者による2010年の落語家のランキングが併載されている。

付録はおくとして、「落語とは何か」で、著者は落語の歴史を語るわけでもなければ、古典落語の定義をするわけでもない。むしろ、そんなものに意味はなく、落語は楽しめばよいのだ、と言う。返す刀で、「とにかく寄席へ行ってみよう」的な導き方をしている評論家は宣伝マンに過ぎない、とばっさりと斬る。「落語評論家とは何者か」では、落語評論のあるべき姿、現在の状況、それを生み出した歴史などを述べた上で、「落語評論家」を「最強の観客であるべきだ」と結論付け、落語家の魅力を語れる者が評論家としての才能である、と述べている。 では、「評論家を評論している」この人物は「何者」なのか。落語評論家ではない。ロック雑誌の編集長である。しかし、落語が好きでたまらず、ほぼ毎日落語を聴きに出かけ、その面白さを誰かに伝えたくて仕方がない。落語への愛情と渇望の果てに、たどり着いたのが本書である。至るところに著者言うところの「無償の愛」が満ち溢れており、「落語評論家は観客の代表である」べきだ、という持論のスタンスが貫かれている。

もう一つの大きな特徴は、落語評論家ではないことが功を奏して、業界内部の複雑な人間関係に遠慮会釈なく物を言えることだ。評論家が真実を語れずに、そうではない人が真実を語る。まるで、今の福島第一原発のような状況だ。しかし、書かれていることに正当性がある以上は、心に覚えのある人は相当の覚悟で受け止めなくてはなるまい。抜身の刃を懐へ忍ばせる覚悟を持って、著者が本書に臨んでいる姿勢があちこちに垣間見えるからだ。そういう意味で、著書は最も落語の評論をするのに相応しい人物だ、とも言える。

演劇を批評する側の人間として言えば、プロの作家、演出家、俳優たちがお金を取って上演している「作品」に対して、好き嫌いだけの感情に頼ることなく、時に批判的な言辞をはっきり述べるのは相当の覚悟がいる。物を見る眼、が問われるからだ。役者が真剣勝負の舞台を演じているのであれば、こちらにも同様の覚悟がなければ、批評はできない。それ以上に必要なものは、「愛情」だ。人間は、悪口に対しては冗舌になれるものだ。しかし、批評家を標榜する以上、次回のためにプラスになる意見を述べてこそ、辛口の意味がある。

ジャンルを問わず批評家と名乗る人々の、必読の書だ。どのジャンルにおいても、健全な発展のためには健全な批評が必要、との著者の言葉は、分野は違えど批評家を標榜する私に更なる覚悟を求められる一言である。