コラム

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『演劇夜話』第十夜 2020.08.03

 スペシャル鼎談 加藤義宗さんと語る『審判』

 「第十夜」スペシャルでは、9月に世界一長い一人芝居『審判』に挑む加藤義宗さんとの鼎談をお送りします。

 以下のURLをクリックしてご覧ください。

『演劇夜話』第九夜 2020.07.27

第九夜【「一人芝居」について】(2020.07.27)

佐藤 こんばんは。早いもので、コロナ禍の中での自粛を受けて始めたこの『演劇夜話』も九回目ですね、先生。

中村 「三か月目」に入った、ということだね。それにしても、今日はやけに積極的だね。

佐藤 いつも先生から聴いてばかりなので、今日は僕の方から「お題」を出したいな、と思っているんです。

中村 熱心で結構。それで、タイトルのように「一人芝居」を? 佐藤 はい。最近、一人芝居に凄く興味があるんですよ。そんなに多くの本数を観ているわけではないんですけれど。井上ひさし(1934~2010)さんの『化粧』も素晴らしいじゃないですか。批評家として、先生は一人芝居をどうお考えですか?

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演劇夜話『第八夜』2020.07.20

第八夜【戯曲を読むということ】(2020.07.20)

中村 我々には当たり前でも、一般的に「戯曲を読む」機会は少ないよね。今日は「戯曲を読む」ことを話そう。

佐藤 読書に対する感覚の違い、ですね。そうか、そういうことだ。つまり、読書に対する感覚も変わった、ということですよね。

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『演劇夜話』第七夜 2020.07.13

第七夜「京都と演劇」(2020.07.13)

中村 タイトルだけを読むと、いささか唐突なようだけれど、日本の演劇の「原点」の一つでもある場所だからね。僕は一度、話してみたいテーマだった。

佐藤 僕も、撮影で太秦(うずまさ)の撮影所へ出掛けることはありますが、映像の仕事ですし、京都で「演劇」を意識したことはなかったですね。何と言っても「観光地」のイメージが強いし。具体的には、どんな関係性ですか?

中村 まずは京都の繁華街「四条河原町(しじょうかわらまち)」、南座という劇場のある場所が「出雲の阿国(いずものおくに)の歌舞伎発祥の地」とされている事だね。また、ここにある「南座」は京都では唯一の歌舞伎の常設劇場だし。今はここしかないけれど、江戸時代には江戸の「江戸三座」のように、公の許しを得た劇場が軒を並べていた、「文化の発信地」でもあったしね。

 それに、有名な観光地だけではなく、京都の各地が芝居の舞台のモデルになっている。歌舞伎が一番多いのは歴史的な長さがあるからだけど、君の好きな新国劇の『月形半平太(つきがたはんぺいた)』にも「祇園(ぎおん)」の場面が出てくるよね。

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『演劇夜話』第六夜 2020.07.06

第六夜【「小劇場演劇」について語ろう】

中村 今日のテーマは「小劇場演劇」。ふだんの僕の批評を読んでくださっている方々には違和感があるかもしれないけれど、実は小劇場演劇は嫌いではないんだ。でも、なぜか「嫌っている」と思われているので、誤解を解く意味も込めてね(笑)。ところで、「小劇場演劇」って何だろう?

佐藤 そうなんですか! 僕も、先生は小劇場は嫌いだと思っていました。

中村 すでにここでそう思われている。まぁ、それはいいけれど、そもそもどういう分類なんだろうね?

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『演劇夜話』第五夜(スペシャル) 2020.06.29

 『演劇夜話』は、「五夜」ごとに、「スペシャル」と題し、今の状況下での新しい「演劇的実験」に挑戦します。

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『演劇夜話』第四夜 2020.06.22

【コメディの魅力を語ろう】

佐藤 あまり暗い話題ばかりが続くのも、っていう感じなので、今日は「コメディの魅力」を語りませんか?

中村 いいね。芝居の世界では「泣かせるのは簡単だが、笑わせるのは難しい」と言うしね。僕は、俳優じゃないからどちらもできない。まぁ、怒らせるのは得意だけれど(笑)。俳優は「コメディ」をどう考えるのか、その辺りを語ろうということ?

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『演劇夜話』第三夜 2020.06.15

「コロナで芝居は変わるのか?」

※これは、「緊急事態宣言」発令前夜の4月6日に行われた「対話」で、その後の「演劇界」の現在に至るまでの動きが予想できていません。それから2か月余を経た今の演劇界の状況と比較しながらお読みいただければ幸いです。

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「演劇夜話」第二夜(2020.06.08)

【第二夜】2020年4月6日

 日付が変わると経験のない「緊急事態宣言」が発令され、5月6日に解除されるまでは、日常生活の行動も「自粛」の要請が更に強まった。「ソーシャル・ディスタンス」「三密」などの言葉が生まれ、こうしてとりとめのない話をするのも、しばらくはご無沙汰、になる。

 これが、我々の見えない敵・ウイルスとの「開戦前夜」であるような気持ちで、いくつかのテーマについて対話を交わした。

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「演劇夜話」第一夜

「演劇夜話~今だからこそ話すべきこと」

 5月25日、「新型コロナウイルス」による「緊急事態宣言」が一旦解除されたが、「終息」したわけではない。今後、第二波、第三波を受けながら、我々はこのウイルスと共存することになるのだろう。 約2か月前、「非常時」を迎えるような状態で、エンタテインメントは防疫の観点からほぼ全滅に近い状態を呈し始めた。この瞬間を、50代の批評家・中村義裕と20代の俳優・佐藤俊彦がどう感じ、何を考えるのか。 時間が「できてしまった」ことを逆手に取り、現状の演劇界についての「対話」を遺すことにした。

【第一夜】2020年3月31日

中村 この「緊急事態」に芝居の話か、という声もあると思うけれど、約40年近く芝居の評論をしていて、自分の意志ではなく一か月以上劇場に「行けない」というのは初めて遭遇する事態で、再開のめども立たない不安定な状態。

これは、恐らくすべての業種で同じだろうが、演劇人でも「演劇」という文化の継続の必要性を、マスコミを通じて述べてもいる段階。

 こういう事態だからこそ、逆にいろいろなことをフラットに、俯瞰的に眺めることもできるのではないか、と。この状態を、50代の批評家と、20代の俳優が、活動すべき「現場」がない状態で何を考えるのか。また、30年以上の年齢の開きで、この現象の見方が変わるのか変わらないのか。そんなことを話そうと思う。では、対話の相手の佐藤君。

佐藤 「新型コロナウイルス」の流行で、多くの劇場で公演中止になっているじゃないですか。僕は無名の俳優ですが、大小は問わず、今まで芝居に関わらせてもらっています。でも、今の状況では、全く芝居に関われない事態がいつまで続くかわからないことに「不安」を覚えます。

 僕は知名度もなく「影響力」もありません。けれど、これで止まるわけには絶対に行かないと思うんです。今日も志村けんさんが亡くなって世間に大きな衝撃を与えました。年齢層の高い方々が倒れていくのはこの病気の一つの特徴ですよね。大ベテランではない代わりに、次の時代を担って行かなければならない若い僕たちの世代に何ができるか、そのために何をすればいいのかが課題だと思っています。

中村 そこはどうなんだろう…。いささか、異論ありかな。仮に君に「知名度」や「影響力」があっても、いつ「緊急事態宣言」が出されてもおかしくない今、何かのメッセージを発信した時に、「劇場再開」が可能かどうか。「不要不急は自粛」と言われている中で、「演劇」はその最たるものだからね。相当の批判を浴びるだろうし、「影響力」云々という段階は過ぎていると思う。

むしろ、今の多様なメディアを知っている「若さ」という特権を活かして、演劇をどう生かせるのかを考える方がいいんじゃないのかな、とも思う。今の話で面白いと思ったのは、世間の人々は演劇でも映画でもライブでも、「非日常」を楽しみに足を運ぶわけだよね。でも、我々は「非日常」を創り、関わるのが「日常」で、正反対の場所にいるということ。その我々の「日常」が、先に何も見えない荒涼たる砂漠に突然放り出され、次の給水ポイントも見えない「不安感」なんではないだろうか。その中で、どうするべきなのか。

佐藤 そうなんですよね。それに直面しているのがまさに「今」だと思うんです。だからこそ、この対話が必要なんじゃないですか。

中村 そうだね。こんな経験はしたくないし、滅多にないことで、今こうして対話をしている我々も明日、どうなるかわからない。文字ができて以降、「演劇」が絶えたことはないはずなんだ、戦争などの過酷な状況でも。「本能」の部分で求め、渇望するものは何か持っているはずなんだよね。その中で抱く、この「不安」「不透明」な感覚を、リアルタイムにどう語ったのかを遺すことには意味があるんだろうね。

佐藤 僕たちの前には戦争を経験した人々がいて、戦地で芝居をしたりしたこともあったわけですよね。その後、戦争を知らない世代が「中心」になって、ギリギリの状況で芝居をする感覚が今の我々にはないとも言えます。今回、コロナにぶつかったことで「価値観」が変わり、より深く考えるきっかけになったと思うんです。

中村 芝居を観て歩くのが仕事の批評家が、一か月以上芝居を観ていないんだよね。このままだと、「劇場へ出かけてお芝居を観て、ライブ感を味わう」という一つの形式が崩壊するかもしれない。

ただ、歴史的にはギリシア悲劇も歌舞伎もはじめは「野外劇」で、技術の発達で「劇場」という建物や空間ができたわけだよ。今でも「お祭り」の多くは野外だから、「演劇」の「祝祭」という側面を考えると、仮に事態が終息した時に「劇場」での観劇というスタイルが「唯一」のような感覚ではなくなっている可能性はあるね。

佐藤 そうですね。その時に「どうするか」ですけれど、今この瞬間に、こういう事を考えている人って他にはいないんじゃないでしょうか。

中村 そうかもしれない。今の言葉で、歌舞伎の『勧進帳』の幕切れの、弁慶の引っ込みの時の「口伝」を想い出したんだよ。片方の眼では、花道を駆け上がり、厳しい山を登る義経一行を、片眼では自分の足元を見ろという。肉体的には不可能かもしれないけれど、そういう「心持ち」で花道を引っ込め、ということ。実際には、花道ではなく石ころだらけの舗装されていない道を追い駆けるんだからね。

今の話は、弁慶の引っ込みの口伝と同じで、片眼で数年先の状況を考え、片眼で今の演劇界を見ながら、新しいツールをどう利用するかを考えて、非常に増えた娯楽の中で「演劇」のボタンを押して、「やっぱり生で見たいな」と思ってもらうことを考えなくてはならないと思う。

その状況で、神社の境内とは言わないけれど、演劇の原点に立ち返って、こちらから持って出かけるという考え方も「あり」なのではないか、と思う。

佐藤 それはすごくあると思います。

中村 「古い」とか「新しい」の基準をどこに置くかで違うけれど、長い歴史のどこを切り取るかで、新しいと思ったことでも実はとっくの昔からやっていたりする。今の新しい歌舞伎の演出を観ても、それを感じることはあるからね。

 今、演劇自体が「ルーティンワーク」に陥っている部分があるのではないか、とも思うんだ。「狎れ」てしまい、新しい物を創る以前の問題で揉めているケースが多くて、「とりあえず回っていればいい」という感覚に陥っている部分があるのは否定できないんじゃないかな。

こういう危機的状況だからこそ、自分の全肉体を使って表現する「演劇」を、ルーティンでやっていたら面白くないと思う。「今」じゃなければできないこと、俺と君では違うよね、年齢も環境も違うから。でも、それが「何なのか」を探すのも、この対話の大きな目的だと思う。

佐藤 こういう話は何度もしましたけれど、「リアルタイム」でこの感覚を残すことの意味は大きいですよね。

中村 今まで喋り散らかしてきた話の中に、残しておいた方がいい話題もあるからね。その意義はあるだろうし、公共放送ではないから、演劇界の事を充分に考えた上で、言っておくべきことは言っておこうという想いはある。「戦争前夜」にも似た今の状況で、どこまで続けられるかわからないけれど。次の回も、相手がいることを願って、乾杯!

佐藤 そういうことの積み重ねが古典の中で曖昧になり、危機感を持つ人がいないと、日本の文化が絶えて、歴史がつながらなくなってしまうんじゃないかと。

中村 時代の変化で形式や感覚が変わることを否定するつもりはないんだ。ただ、その「プロセス」をちゃんと知っておこう、ということだね。

佐藤 そうですね。

中村 歴史は誤解されたまま伝わることが多いからね。最近は、それが怖いね。

今日は初めてで、あちこち話題が飛んでしまった。でも、初めての話題も結構多いね。「次」があったら、何が飛び出すんだろうな。じゃあ、今日はここまで。

(了)

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