2009年11月10日、森繁久彌が96歳で長逝した。ここ数年間は、年齢や体調の問題もあり表立った芸能活動を控えていたが、昭和の一つの時代を築いた稀代の名優であったことは否定のしようがない。今の若い演劇ファンには馴染みのない役者かも知れないが、映画、テレビ、舞台、ラジオの他に、詩人、歌手など、多角的な煌めきを放った昭和を代表する役者である。

 マスコミ的な言い方をすれば、「一つの時代の終焉」、あるいは「巨星堕つ」という見出しになるのだろうが、極端な言い方をすれば、そのエネルギッシュな仕事ぶりは、まさに「怪物」と言ってもよいほどであった。

 森繁久彌という役者を語る際に、900回演じた「屋根の上のヴァイオリン弾き」をはずして語ることはできないだろう。日本中に大ブームを起こしたこの作品の評価は、今でも高いものがある。しかし、森繁久彌という役者を語るには、とてもそれだけではすまない。映画の「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」で見せた喜劇人としての間の絶妙さも抜きにはできないし、抒情豊かな詩人としての才能も看過することはできない。30年ほど森繁久彌という役者の芝居を観て来たが、印象に残る芝居は、いくつもある。その中で、あまり話題にされることはないのだが、どうしても忘れ難い芝居がある。

 昭和52年1月の日生劇場公演。「ナポリの王様」という、イタリアの喜劇が上演された。主演の森繁久彌、山岡久乃、一の宮あつ子、井上順、横山通乃(当時の芸名は横山道代)などが顔を揃え、お正月にふさわしいコメディだった。そこで森繁が演じたペテン師とも言える胡散臭い、それでいてどこか温かみのある芝居が忘れられない。当時中学生だった私は、お年玉の中から、奮発して二等席を買い、日生劇場の片隅で大笑いしたことを今でも鮮明に覚えている。誤解を恐れずに言えば、「社長シリーズ」の映画や他の喜劇に見られる、「インチキ臭い」とも思える「間」が、森繁久彌という役者の本質的な評価と言えるのかも知れない。

 森繁がアドリブの名人で、それに困らされた共演者の数は多い。名は伏せるが、私も何人かの役者からその話を聴いた。本来であれば、台本に書かれていない科白を言うことは、作者に対して礼を失することになるし、芝居の「王道」ではないのかも知れない。しかし、即興で芝居の流れをそれることなく、絶妙のアドリブを入れることは、相当の腕がなくてはできないことでもある。私が想像するに、森繁のアドリブに対する感覚は、若かりし頃、新宿にあった「ムーラン・ルージュ」などで、当時は「軽演劇」と呼ばれていたコメディで容易には笑わぬ客を相手に舞台と客席が切り結んだ真剣勝負の中で生まれ、身についたものではなかったのだろうか。

 アドリブに格があるかどうかは知らないが、森繁のアドリブは、今のテレビでちんぴらタレントが口から出まかせのように言っているアドリブとは桁が違う。同じアドリブとは言え、横綱相撲にも匹敵するものだった。「アドリブに横綱も幕下もあるものか」と言うなかれ、ここに、「芸」というものの凄みがあるのだ。その辺りがわかっていないタレントだの役者がいくら騒いだところで、到底相手にはなるまい。

 これは森繁久彌に限ったことではないが、「名優」と呼ばれる人々は、少なからず修羅場を幾度も経験している。そうして観客に、あるいは演出家に鍛えられ、芸を身につけて来たのだ。金箔の厚みが違うのだ。だからこそ、名優と呼ばれる価値もあるというものだ。

 芝居を観はじめてから、一体何人の名優と別れて来たことだろう。生老病死は世の習いとは言え、訃報に接するたびに「また一人…」という寂寥感をぬぐい去ることはできない。十一月十日、小春日和に、森繁久彌はその芸のすべてを持って、旅立ってしまった。昭和という時代を象徴する役者の一人であったことは誰も否定できまい。その寂寥感は、時を経るに従って大きくなる。今となっては、その謦咳に接することのできた幸せと、舞台の上と観客席で共有した時間を懐かしみ、惜しむばかりとなってしまった。大きな感動を残して。

合掌