私が最期の團十郎の舞台を観たのは、昨年十月の新橋演舞場の「七代目松本幸四郎追遠」の舞台で昼夜にわたり、従兄弟の松本幸四郎と演じた『勧進帳』だった。千秋楽間近のある一日に昼夜を観たが、昼が團十郎の弁慶に幸四郎の富樫、夜は幸四郎の弁慶に團十郎の富樫、義経はどちらも藤十郎という顔ぶれだった。團十郎は、風邪気味ったのか喉を悪くしたのか、発声がいかにも苦しそうで、弁慶と富樫との問答などは聞いていて気の毒なほどであった。役は違えど『勧進帳』という大曲を昼夜二回演じるのは、並々ならぬ気力と体力を必要とする。幸四郎も團十郎も、『勧進帳』には愛着一入ならぬものがあり、体調不良は感じさせながらも、幸四郎に一歩も譲らぬ気迫が感じられた。

十二月恒例の京都・南座の顔見世公演を休演したと聴き、過去の大病の再発でなければ良いが、と願ってはいたが、相次ぐ休演の発表は、嫌が上にも病状が芳しくないことを感じさせ、二月三日の夜、訃報が入った。

團十郎の舞台で忘れがたいものはいくつもあるが、私の場合は、昭和60年に歌舞伎座で三ヶ月にわたって行われた「十二代目團十郎襲名披露興行」の『助六』だ。三ヶ月の襲名披露も異例だが、四月には歌右衛門、仁左衛門の当時の大ベテランを向こうに回して助六を演じ、六月には幸四郎、菊五郎らの同世代と助六を演じて見せた。襲名披露の折の溢れんばかりの歌舞伎座の賑やかな光景は今も鮮やかに脳裏に残っている。

明るくて華やかな芸は、若い頃には「科白に難がある」とさんざん指摘されたが、やがて芸容がそれを包み込むような存在になった。

歌舞伎の歴史を語る時、代々の「市川團十郎」の名には特別な想いが込められている。現在までの十二代、「江戸歌舞伎の総本山」とも「江戸っ子の守り神」とも言われて来た。ここ一年の歌舞伎界の相次ぐ悲報には眼を覆いたくなるばかりだ。しかも、四月には新しい歌舞伎座のこけら落としを目前に控えてのことである。團十郎の無念、いかばかりかと思うと、運命の過酷さを思わずにはいられない。松本幸四郎、片岡仁左衛門、中村吉右衛門、坂東玉三郎、尾上菊五郎らの平成の歌舞伎を牽引しているベテラン陣にかかる重責はより一層のものになるだろう。

今すぐにどうなるものでもないが、歌舞伎の大名跡にずいぶんと空位ができてしまったのが気になる。中村歌右衛門、市村羽左衛門、市川團十郎。十二代目が團十郎を継ぐまでに、20年の空白があった。今は、遺児の海老蔵が自他共に「市川團十郎」の名に相応しい芸を見せられる日が来るのを待つだけだ。

歌舞伎座が改築のために姿を消して以降、相次いで名優や働き盛りの役者の訃報が続いた。「歌舞伎座の呪い」などという馬鹿げたコメントもあるようだが、「江戸随市川」の名を誇った團十郎の死で、この打ち続く不幸に幕を引いてもらいたいものだ市川團十郎家の屋号でもある成田山の本尊は不動明王である。燃え盛る炎の中で厳しい顔をしながらも、衆生済度のために端座している姿は、穏やかな人柄と、内に秘めた歌舞伎への熱意が重なった姿のようにも思う。今後は「平成歌舞伎の守り本尊」として、遥かなる虚空から、子息・海老蔵を含めた後輩たちを暖かく見守ってほしいと節に願っている。