⑰藤間 紫(1923~2009)

 舞踊家であり、女優でもあった。舞踊家の六世・藤間勘十郎との離婚後、2000年に三代目・市川猿之助(現・二代目市川猿翁)と結婚をし、プライベートの部分でも多くの話題があった人だが、舞台でもスケールの大きな女優だった。1995年に、後に伴侶となる猿之助の演出で『西太后』を演じ、歴史に名を遺した女性の人物像の大きさと圧倒的な存在感を見せたのを覚えている。

 元来が舞踊家であり、舞踊家としての活動がほとんどだが、舞踊と芝居は隣同士のような関係にある。「天才少女」との誉れが高く、戦後、1948年の『淀君』をはじめ、『青銅のキリスト』など、創作舞踊に精力的に取り組んだ功績も書いておくべきだろう。日本舞踊の世界でも歌舞伎と同様に、明治期から新作の試みが行われているが、なかなか新しい作品が根付かないのはどちらも悩ましい問題として抱えているところだ。そうした状況に対する煩悶もあったのだろうか、藤間勘十郎との離婚後、宗家・藤間流を離れて自らが「紫派藤間流」を創設、晩年まで自らの原点である舞踊家としての活動に精力を注いだが、私の眼にはやはり「芝居」が残っている。

 藤間紫がその魅力を発揮するのは、自分自身が主役となる芝居よりも、誰かの相手役や、脇に回って「抑え」の役割を勤める時だ。そういう意味では、『西太后』は長い舞台歴の中でも稀有な作品、と言えるかもしれない。晩年近くになり、今まで月のような輝きを見せていた女優が、大きな太陽に変じたケースである。それは、落日が見せた眩いばかりの残照、だったのかもしれない。

 主役と脇役、という点で言えば、もう一本書いておくべき舞台がある。1997年に新橋演舞場で演じた『華岡青洲の妻』も主役だ。これは杉村春子の当たり役で、初演は山田五十鈴に当てて書かれた作品だ。この時も杉村春子が演じる予定になっていたが、杉村は病を得て生涯初の休演を余儀なくされた。そこで「代役」として、杉村の持ち役だった「於継」を演じたのだ。当たり前の事だが、代役は常に急遽回って来るもので、しかも名女優の誉れが高い杉村春子の代わり、というのは大きなチャンスであると同時に誰もが二の足を踏むほどの厳しい状況でもある。しかし、ここで病中の杉村を助けることと同時に、女優の矜持として、「藤間紫の『華岡青洲の妻』」を演じたことは、書き残すべき功績の一つだ。

 それ以前の舞台について言えば、印象に残っているのは高橋英樹や大川橋蔵の明治座での座長公演に、ゲストとして出た時の見事さだ。座長よりも年齢が上で、芸歴も長い女優であり、芝居の世界ではこうした形での出演を「上置き」と呼ぶ。「特別出演」と言い換えれば理解が早いだろう。まさに、「上置き」という呼び方がふさわしい役者だった。主役の芝居に堂々と張り合い、力強く説得力のある台詞で、女優とは思えない「力」を発揮する技術は、他の女優にはあまり例のないことだ。だからこそ、「上置き」としての存在が重宝されたのだ。

 どんな舞台でも、「安心して芝居を任せることのできる役者」は重要な存在だ。こういう役者がいると、舞台に深みが出て、濃度がぐっと高まる。藤間紫は、そういう役者なのだ。これは、舞踊家としてのたぐいまれな素地の上があって芝居をすることで、観客への「見せ方」を熟知していた、というのが大きな理由の一つだろう。すべてをイコールで結ぶことはできないが、「派手に見せる部分」と「目立たぬように内輪に見せる部分」とは、舞踊にも芝居にも共通しているものは多い。

 いずれにしても、どれだけ多くの舞台を踏んで来たか、その経験の数が物を言うのだ。「天才少女」と呼ばれた時代の舞踊の修行がなければ、のちの女優・藤間紫は存在しなかっただろう。そういう意味では、努力も重ねただろうが、稀有な才能に恵まれた女優だったのだと言えるだろう。