「新劇の神様」と呼ばれた昭和の演劇の巨人である。いわゆる「新劇」言われる分野において、『カリスマ性』という点で言えば、男優の瀧澤修、女優の杉村春子が同時代を生きた双璧だろう。緻密な演技、そこへ至るまでの台本の解釈と自らの役作りに関しては、他の追随を許さない役者だった。三好十郎の作品で、自らが当たり役とした画家・ゴッホの生涯を描いた『炎の人』を初演した時に、自らがフランスへ渡り、ゴッホが歩いた道と同じ道をその足でたどった、というほどだ。これは、自らも絵を嗜むという部分もあったにせよ、尋常ではない凝り方、と言える。

 瀧澤修の魅力と言えば筆頭に挙げられるのがその台詞術で、俳人で劇作家でもあった久保田万太郎は「六代目 瀧澤修 翫右衛門」という句を遺している。これは、台詞のうまい三人の名優を並べたもので、「六代目」とは六代目尾上菊五郎、「翫右衛門」とは前進座の創立メンバーでもあった中村翫右衛門を指す。三絶とも言うべき一人に数えられていることだけでも、その台詞術がいかに凄いかがわかる。

 私がそれを実際に体験したのは、これも当たり役だったアーサー・ミラーの『セールスマンの死』の三演目、1984年のサンシャイン劇場での舞台だった。主人公のセールスマン、ウィリー・ローマンは、かつては腕利きだったが、今は年齢もあって仕事もうまくゆかず、隣に住む友人に毎週生活費を借りるありさまで、仕事も失う寸前の状態だ。しかし、自分の中に抱き続けている夢は大きく、二人の息子への期待も大きい。やがて、現実と夢との区別が付かなくなり、狂気に取りつかれ、最期には自ら死を選ぶ。今もいろいろな俳優によって上演が繰り返される名作の主人公を演じた瀧澤はこの時、78歳だった。
 芝居が進むにつれて、自分の感情がコントロールできなくなる。その折に暴発する感情のエネルギーの大きさには圧倒された。前から五、六列目で観ていた私に、「風圧」のようなものが襲い掛かるほどで、改めて凄まじい役者だと感じた。

 しかし、「名優・瀧澤修」とて簡単に完成したわけではない。晩年にいたるまで現役の俳優を貫けた裏には、徹底的な自己の肉体管理があった。また、「劇団民藝」を設立するまでは、左翼思想の演劇を上演していたことから、戦時中の昭和15年に「治安維持法」で投獄された経験も持っている。釈放後しばらくは世田谷で農業をしながら雌伏していた時期もある。戦争が激しくなる中、多くの俳優が仕事を失った。その時に、時間に余裕ができたと瀧澤のもとに演技術を教わりに来た俳優は多い。その一人に、女優の山田五十鈴がいた。当時、すでに大スターの座を確立しながら、あくなき芸への追及が、ジャンルを超えて新劇の演技術の吸収へと向かわせたのだ。山田五十鈴のこうした努力は、昭和34年の第4回新劇合同公演『関漢卿』に招かれて瀧澤と共演することで実を結ぶ。

 もう一つ、瀧澤修が優れた俳優だった、と感じるのは、怜悧に自分を見つめる「眼」を持っていたことだ。誰でも自分には甘くなり、できるものなら褒めてもらいたい。しかし、瀧澤修の透徹した眼差しは、そういう俗っぽい私のような感情を遥かに突き抜けてゆく恐ろしさも併せ持っていた。これは、よほど自分に厳しくなければできることではない。

 亡くなる4年前、90歳の折、定例の三越劇場の12月公演で演じた短編『俳諧師』が最期の舞台となった。劇団の両輪、とされた盟友の宇野重吉も、最期の舞台は三越劇場の12月公演だった。理路整然と積み上げてゆく役の解釈は、瀧澤の教えを受けた奈良岡朋子らによって今も劇団民藝の中に受け継がれている。「芸が一代」であることに変わりはないが、その思想や行動は、後継者がどう受け取るかによってはこうして活かされ、形を変えながら他の俳優に宿って命を長らえることもできるのだ。