毎年、この時期になると、「昨年観た舞台の中で各部門のベスト・ワンをあげよ」というアンケートが来る。女優・男優・演出・作品・スタッフなど、いくつかのジャンルで自分が観た芝居の中から「これは」と思う人や作品を選ぶのは、一仕事だ。毎年、去年の観劇メモをめくっては「ああでもない」「こうでもない」としばし考え込む。その時に、いつも頭の中をよぎるのが、「大竹しのぶ」の名前だ。コンスタントに毎年ヒットを放っている証拠だが、去年シアタークリエで再演した『ピアフ』の出来は凄かった。折から、ピアフ没後50年を迎えた昨年、稀代のシャンソニエ、エディット・ピアフに関するイベントや作品は多かったが、大竹ピアフがすべてを浚った感がある。一昨年の初演が好評で、それを受けての再演だったが、支持されるだけあって、初演よりも舞台は凄みを増していた。

最近の大竹しのぶの舞台には「凄み」がある。私が最初に彼女の芝居を観たのは、1983年9月に新橋演舞場で上演された井上ひさしの『もとの黙阿弥』という芝居で、まだ片岡孝夫時代の片岡仁左衛門、水谷良重時代の水谷八重子に、有馬稲子などのメンバーの、いわゆる「商業演劇」だった。その中で、彼女がどんな役割を演じていたか、正直なところ、あまり鮮明な記憶はない。30年以上も前の話で、当時は若手の清新なアイドルとして舞台を飾ったのだったか。

驚くような変貌を私の記憶に残したのは、2002年5月にシアターコクーンで堤真一のスタンレーを相手に上演した『欲望という名の電車』のブランチだった。この芝居は、現代アメリカ演劇のもはや古典とも言える名作で、歴史的名女優・杉村春子が日本で初演して以来、長年の当たり役として来た。しかし、腕に覚えのある女優ならば、誰もが挑戦したいと思うほど、歯ごたえのある難しい役で、事実、東惠美子、岸田今日子、栗原小巻、水谷良重、樋口可南子など多くの女優ばかりか、女形の篠井英介も上演している。

繊細な外見を持つ女性が、いろいろな要因で暴発の末に崩壊する、という形式を持つ作品での「暴発」の魅力、それは昨年の『ピアフ』にも共通するのだが、これが女優・大竹しのぶの魅力である。それが『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』などの舞台にも脈々と流れている。

「暴発」の対極にある感情は「抑制」だ。では、大竹しのぶに抑制の効いた芝居ができないか、というとそうではない。2004年に新国立劇場で演じた『喪服の似合うエレクトラ』のような沈鬱な空気の澱んだ芝居にも軸がぶれることはない。どんな感情も自由に操ることができるからで、これこそ「役者」というものだ。役の者である以上、どんな役の感情でも表現することができなくてはならないし、自分好みの役ばかりが来るとは限らない。ほとんど科白のない役も来る可能性がある。パントマイムというとまた表現の範疇が違って来るが、一本の芝居の中で、ほとんど科白のない役で舞台に登場していたとしても、その存在感は圧倒的だろう。

こんな話を思い出した。普段から座談の名手で知られたある女形の晩年、主役で新作が書き下ろされることになった。どんな芝居になるのか、と楽しみにしていたら、ほとんど科白のない寡黙な老婦人の役だった。「あたしが普段お喋りなことを知っているからって、ほとんど科白のない役を書いた先生も先生だけれど、こういう役が来ると、それはそれで面白くて、どう見せようかと思うもんだね」と、稽古の前に私に話してくれたことがあった。大竹しのぶにも、そんな役を演じる日が来るのだろうか。楽しみだ。