ご存じ「歌舞伎十八番」の中でも、人気のある演目で、吉原を舞台に花川戸の暴れん坊・助六と吉原の花魁で助六の愛人・揚巻、敵役の髭の意休の三人を中心に展開する物語だ。舞台が遊廓なだけに、煌びやかで大勢の役者が登場するフェスティバルのようなイメージがあるが、実はこの作品、上方の生まれである。元禄期に、京都で起きた心中事件を歌舞伎にしたものが江戸に移され、長い歳月の間に洗い上げられて現在の姿になったのだ。

 助六とその兄・白酒売りの新兵衛は実は曽我五郎・十郎兄弟で、父を討った敵を探すために証拠となる名剣・友切丸を探している。そのために、助六は至るところで喧嘩を吹っ掛け、相手に刀を抜かせては目指す敵かどうかを確認しているが、なかなか敵に巡り合うことはできない。やがて、揚巻に嫌われながらも入れ揚げているお大尽・髭の意休が目指す相手だとわかり…。現在は、ここまでの上演がほとんどだが、この一幕でも二時間かかる。さらに続けると、意休を討って本懐を遂げた助六は追手に見つからぬように、天水桶に身を隠す。この桶には本当に水が入っており、ずぶ濡れになる「水入り」を上演するのは稀なことだ。まさに、「水も滴るいい男」なのだが…。

 歌舞伎では、多くの演目の中に「曽我五郎・十郎の仇討ち」をテーマにしたものがある。歌舞伎の作劇術ではテーマとなるべき「世界」を定め、そこにエピソードとしての「趣向」を加えて一つの作品を編む。曽我兄弟の悲願達成までの苦労は、好んで「世界」に取り上げられ、「曽我もの」という一つのジャンルを形成している。『寿曽我対面』(ことぶきそがのたいめん)『矢の根』『夜討曽我』(ようちそが)、現在は上演されないものも含めれば、歌舞伎の演目の一角を占めるに充分な数だ。

 助六にはフェスティバルのようなイメージがある、と書いた。若い役者が演じる「福山かつぎ」といううどん屋の出前持ちは、当時の江戸っ子に人気のうどん屋であり、ユーモラスな朝顔仙平という役は、芝居のスポンサーにもなった「朝顔煎餅」のもじりだ。現在の映画やドラマの中に、何気なくスポンサーの商品が使われたり、強調されることの「走り」がここにもある。こうした、ある種気楽で陽気なムードが華やかさを際立たせているのだ。
粋で女性にもてて仕方がない助六の見せ場の一つは、花道を出て来る場面の振りで、これを「出端」(では)と呼ぶ。紫の鉢巻き、黄色の足袋、黒い傘に黒の着付けと、幾つもの色彩をまとった助六が花道を登場すると、劇場に花が咲いたような明るさになる。

 この作品の中で特徴的なものはいくつもあるが、江戸で発達した「悪口(あっこう)の文化」だ。揚巻は「悪態の初音」と言いながら敵役の意休を公衆の面前で堂々とけなす。喧嘩好きという設定の助六も同様である。現代のように陰湿なものではなく、人をけなす「悪口」を一つの文化にしていた時代が垣間見えるのは面白い。江戸っ子の口が悪いのはこれに始まったことではなく、「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し口先ばかりで腹わたはなし」という狂歌には、悪口の中に相手を気遣う照れや含羞が見え隠れしている。

 見え隠れと言えば、この『助六』は曽我兄弟の仇討ちが作品の前面に描かれているが、その地下水脈には江戸時代のダークな人間関係が描かれている。ここでは触れることはしないし、また、できない問題でもある。この重層が、歌舞伎の魅力でもあるのだ。