「ミステリの女王」と呼ばれ、名探偵ポワロ、ミス・マープルなどの産みの親である。1920年に作家としてデビューし、1976年に85歳で亡くなるまでの半世紀以上にわたる活躍の中で、長編・短編、戯曲など合わせて250編近くの作品を遺し、世界中で10億部以上が出版されているという。イギリスを代表するミステリ作家であることはもちろん、没後40年以上を経た今もなお、世界で愛されている作家である。自作の推理小説を劇化した作品も何本か書いており、その一本『ねずみとり』は、1952年の初演以来、俳優を変えながらも、現在も上演が続いている、世界一のロングラン公演だ。

 今回は、ミステリのアンケートを取ると常に上位に入る名作で、「童謡になぞらえて殺人が起きる」という「見立て殺人」、「孤島にいる限られた人数の中で殺人が起きる」という「クローズド・サークル」の作品の走りとも言うべき『そして誰もいなくなった』。1939年に発表された作品で、見知らぬ10人が招かれた絶海の孤島の館で、そこに飾られている童謡の内容通りに殺人が起きる、という絶妙な設定は、以降、形を変えながら多くの作家がこの作品に挑むことになり、先日も日本に置き換えて向井理、仲間由紀恵、沢村一樹、大地真央、柳葉敏郎などの豪華メンバーでリメイクされ、二夜連続で放送されたばかりだ。

 『そして誰もいなくなった』は純然とした推理劇だが、小説と戯曲では結末が違う。二次元で「読む」小説と、三次元で「観る」舞台との差に作者が配慮した結果か、クリスティ自身が違う結末を用意したのだ。「推理劇」は舞台劇の中では難しく、一度観れば結末がわかってしまう。それを繰り返し見せるには、物語自体の面白さはもちろん、登場人物が魅力的に描かれていなければ名作にはならない。年齢、職業、属性に加え、誰もが犯人になり得る可能性を持ったまま幕切れの解決まで観客を飽きさせずに引っ張る力がなければならないからだ。この作品では芝居が進むに従い、登場人物が減る一方だ。それだけ犯人の要素は絞られ、その中で最後まで見せる設定の妙の成せる技でもある。

 興行的に難しいのは、登場人物の10人の役者にあまりばらつきがあっても面白くならないことだ。1999年7月、東京グローブ座での上演では三浦洋一、藤谷美紀、佐野浅夫、長内美那子など、2000年6月、アートスフィア(現・銀河劇場)での上演では筒井康隆、藤谷美紀、天宮良、長内美那子など、2003年10月のシアターアプル(現在は閉館)では山口祐一郎、匠ひびき、今拓哉、金田賢一など、その折々の個性的なメンバーを集めている。

 この芝居を観ると、大人が楽しめる質の良い芝居の必要さを改めて感じる。日本はよく「文化後進国」だと言われるが、クリスティの作品だけではなく、アラン・エイクボーンやレイ・クーニーなど、良質のコメディが多く生み出される環境を持っているのは、シェイクスピア以来の「大英帝国」が持つ演劇史の厚み、だろうか。何とか一矢を報いるためにも、日本の文化行政ともども考えなくてはならない問題だ。

 時代の流れなのだろうが、見立てに使われる童謡は、10人のインディアンの人形が1人ずつ減ってゆく、というものだ。しかし、「インディアン」が差別用語に当たるとされ、上演やリメイクの度に「兵士」などに置き換えられている。原作の味を損なう言い換えではないものの、こうした部分にこの作品が経て来た80年近い歴史を感じる。